有地トリオ 公式ホームページ

ピアノの部屋

引き込む芸

 次の土曜は松本健一さんと一緒に酒田で演奏するのだが、モードジャズを1曲予定している。

 普通モダンジャズは、独特の細かなコード進行に沿ってアドリブを展開して行くのだが、「コードに縛られずにもっとおおらかにアドリブをやろうよ」と考えたマイルスをはじめとする先人達が、50年代末にモードジャズスタイルを確立した。

 あの…暗いんだか明るいんだかよくわからない…都会的な?曲調のジャズだ。

 うちのトリオ再結成以来モードジャズは演奏したことがなくて、聞き手を引き込むようなアドリブの展開ができなくて苦しんでいたのだが、やっと少し良くなって土曜日が待ち遠しくなってきた。

 人を引き込む芸…う~ん道はまだまだ遠いなあ…
 引き込む芸といえば、自分はたまに寄席に寄るのだが、林家正蔵さんは凄い。自分的にはゆくゆくは人間国宝になる人だと思う。

 落語もライブなので、どうやって聴き手を引き込んでいくかが見どころなのだが、話の抑揚、間の取り方、静寂とインパクト…これらのスケールが正蔵さんのは大きくて、すぐに聞き手が飲み込まれていく。すごいなあ~

珍しい苗字は苦労が多い

 どこに行っても「珍しい苗字だね」と言われる。

 元は三河武士で殿様の護衛で付いてきて残ったと伝わっているが証拠はない。

 ずいぶん前に、月1で名古屋に行く仕事があって、何度か訪れた飲み屋で「うちのお客で有地さん2人目よ」と言われ、やっぱこっちがルーツなのかな?と思った。

 そうこうしているうちに、大阪在住の有地さんが「有地家のホームページ」を立ち上げ、世界中の有地さんに呼びかけルーツを探ってくれた。

 それによると大元は備後の国(広島県)の国人領主で、その後毛利家に仕え、関ヶ原を機に全国へ散ったらしい。尾張徳川家の勘定方に有地さんがいて、三河から出たとするとそこから流れた可能性があるということになった。いずれにしろ、有地一族の中で最も北に行った家だらしい。

 酒田の居酒屋に予約の電話を入れたらこうなった。

「有地といいます」「アリキさんね。字はどう書きます?」

「有名の有に天地の地でアリチって言います」「ハイハイ有に天気のキでアリキさんね」

「いや地球のチでアリチです」「あ~気球のキでアリキさんね」

「ちがう~地理のチでアリチだ~」「キリのキでアリキさん、お待ちしております」

…店に行ったら「有気様」になっていた。

 家内に話したら「地下鉄のチって言えばいいのよ」…納得。

血液型のはなし

 レコーディング前日の土曜日、b奥泉から「塩野さんがスタジオまで来たけど誰もいないって言ってる…」と電話があった。
「ギョエ~!!!」

 奥泉も自分も、自分達の方が日にちを間違えたと思って疑わなかった。なぜならds塩野はA型で奥泉と自分はB型だからである。

 「まじめなA型」「いいかげんなB型」「おおざっぱなO型」というイメージは、中学生時代に女子生徒達によって刷り込まれ、我々の世代ではオキテと化している。そして失礼ながらAB型に人権は与えられていない。

 まあ確かに…焼き鳥屋からの出がけに片っぽだけ他人の靴を履いていたり(しかも両方右だった)、ライブの直前そんな服装で人前に出るなと着替えに戻されたり、コンサート中に1人だけkeyの違う譜面で演奏したり…と、B型の失敗は確かに多い。

 でもB型にはスターさんも多いのである。内田裕也も山下達郎も矢沢永吉もYOSHIKIB型…織田信長も徳川家康も西郷隆盛も…おいおい、ホントか?(諸説あるみたいです…)

 という訳で?レコーディングは日曜日だったのであった。

 血液型で性格を判じるのは日本人だけという話もあるし、研究結果からはそんなことは認められていないとの報告もあるみたいだけれど、話のタネとしては面白い一面もあるのではないかと思う。

 日本はA型が多いけれど、国民全部O型という国もあるそうな…

もうひとつのジャズ・トライアングル

 置賜地方の3つの蔵をめぐる「ジャズトライアングル」については「演奏模様」のページに詳しいが、旅の情緒などについてもふれたい。

 旅の楽しみといえばもちろんお酒…人呼んで「ざる」と言われる社長と自分(有地)、b奥泉はその上を行く「人間マンホール」。それに一般的な日本人体質ではあるがこよなく酒を愛するds塩野。珍道中にならぬ訳がないのであった。

 最後の演奏が4時半に終わると4人とも頭の中は「ビール」しかない。宿は高橋玲子さんに教わった赤湯駅前の「ビジネスホテル丹泉」。ここにクルマを置いてあとはタクシーに足を切り替えることにした。

 フロントで居酒屋を尋ねると、なんと同じビルの脇にあるという。喜び勇んで「ほろ酔い処叶」に入店。着物に割烹着のママさんがあり合わせで作ってくれた肴でビールを飲む…最高!

 7時からセッションがあるのでベロベロになるわけにはいかないが、生き返った4人であった。つかの間の幸せを楽しんで、ママさんにタクシーをお願いしたら、なんと隣が「やまばと観光ハイヤー」だった。ドラえもんのポケットのように必要なものが次々に手に入る赤湯駅前である。

 セッションが終わって再び「やまばと観光ハイヤー」に乗り込む。少し離れたコンビニに寄ったのでさっきより距離は長くなるのに、運転手さんが来る時の料金でメーターを倒してくれた。なんという優しさ!置賜って人があったかいところだなあと感動した。

 コンビニの酒とつまみで部屋で3次会。心地よい疲れと酔いでぐっすりと眠れた。

 翌朝9時出発。ところがds塩野が起きてこない。実は秋田ツアーでも二日酔いでトイレと友達だったことがあった。「オレの新車汚れるのいやだぜ」と奥泉がぼやく。「あとから電車で帰ってもらおうぜ」とか言っている…しかし大丈夫、時間を間違えただけであった。

 こうしてあまり行ったことのなかった置賜の旅は終わったが、静かで人のあたたかな良いところだったなあと感じている。

ビジネスホテル丹泉(静かで良い)
ほろ酔い処 叶
やまばと観光ハイヤー

レコーディング

 コロナ前のこと。「渋さ知らズオーケストラ」の広沢リマ哲さんが酒田に移住されて、酒田駅近くのライブハウス「ジャズリノ」で一緒に演奏させていただくようになった。ジャズリノではインディーズ系のブルースやロックのバンドも数多く出演していて、その多くはCD販売もしていた。

 自分はそれまで録音が大嫌い。「音楽は時と共に消えるからいいんで、録音したらいつまでも反省しなきゃいけなくなるじゃねえか」と思っていた。でも待てよ。自分らの音楽を広める手としてはありかも…と思って、b奥泉と呑んでる時に相談してみた。

彼曰く「オレらの演奏聴いてくれてCDまで買ってくれる人いるか?そんな貴重な方がおられるなら、CD代はマイナスに設定した方がいいんでないの?」

「だよなー!演奏聴いてくれてCD持ち帰って頂ける人にはもれなく100円付いてます…みてーな」と二人で盛り上がったのであった。

 シラフに戻ってからCD制作の原価を計算してみたら、結構おカネがかかることが分かった。スタジオ1日借りて、ピアノ調律して、機材買い込んで、ミキシングお願いして、印刷して、プレスして、梱包して…で、何とか自分らでできる範囲が6曲入り6百円という設定だった。CDにはもっと情報が入るので、1枚に6曲というのはとても勿体ないのであるが、1日のレコーディングで録れる最大数が6曲であった。

 間違えたと言っては録り直し、鼻すすったと言っては録り直し、せきが出たと言っては録り直し、お腹が鳴ったと言っては録り直し…やっと最後まで行ったかと思うと「オレの出来がまずい」と言っては録り直し…

 午後になるともう、みんなの目が血走ってきて「てめー次まちがえやがったらただじゃおかねー!」みたいなおとろしい雰囲気の中でレコーディングは続くのであった。

 こうした曲折を経てまた新しいCDHorizon」が誕生した。今回はインストルメンタル主体で、春山早苗はボーナストラックでHorizonを唄う。

 9月2日(土)19時からの荘銀本店ホールコンサートから販売開始します。買ってねー!

YDS-120

 ついに買ってしまった。

 YDS-120というデジタルサックス。初めてフォークギターを手に入れた時以来の新鮮な嬉しさである。

 息を吹き込むと内部のセンサーが反応して音を出してくれるので、小学校の音楽で習ったリコーダーと同じ要領で簡単に音が出る。見た目はソプラノサックスのようだが、バリトン、テナー、アルト、ソプラノだけでなく尺八の音も出る。

「フフフ、今に見ておれ松本健一!」などとは毛ほども思っていないが、もう少し簡単に吹けるものだと考えていた。なぜなら、音は簡単に出るし、アドリブはピアノで鍛えてあるので、それを移せばいいんだと思っていたのだが全く違った。運指が難しいのだ。

 考えてみれば60の手習いだからなあ。若いころのようにスッと入って来なくなっているのかもしれん。途中で指使いが分からなくなってパニくって「パラリラ…ピーヒャラ」が繰り返される。

 しかし1年後、松本さんのセッションに持って行って演奏することが目標である。そして言ってみたいな~「逃げるな松本健一!」

浅草ジャズコンテスト

 先日4年ぶり開催の山形ジャズサミットに出演させて頂いた。

 4年ぶりともなると、むか~しから知ってる方々は一様に年寄りくさくなっていて、お互いに「年取ったなあ」と笑い合ったのであったが、皆さんレベルが上がってるのと、お客さんも多くて楽しい演奏会だった。

 他のバンドの演奏を聴きながら、「みんな上手いなあ、オレ大丈夫かな」と思い、そういえばこんな雰囲気って別の場所でもあったなあと思いだしたのが「浅草ジャズコンテスト」である。実は自分は2度出場している。

 最初は昭和63年の3月、「第7回浅草ジャズコンテスト」に秋田のキャットウォークジャズバンドというクインテットのピアノとして出場した。バブルの頂点の頃だ。この頃はバンドのギャラは今より高かったのはもちろん、お店でピアノを弾いているとポケットというポケットにお札を突っ込まれて、家に帰って体を振ると千円札で2万円くらいが床に落ちたというバブリーな時代だった。

 脱線したが、この時は東北から初めての出場だったことで、秋田放送のラジオ番組に呼ばれてインタビューされた記憶がある。秋田からはマイクロバスを仕立てて応援団も乗り込み浅草へ向かったが、自分は鶴岡から上越新幹線で向かって宿で合流した。どこの宿だったか覚えていないが、大部屋に女の子たちも一緒に雑魚寝だった。メンバー全員浅草が嬉しくて、翌日の演奏の事など全く考えずにもんじゃ焼き屋でたっぷりと飲んでベロベロだった。

 翌日、二日酔いをものともせず浅草公会堂に入った。舞台袖から客席を見ると、審査委員長はジャズ評論家の本田俊夫(as本田俊之のパパ)さん。審査委員はギターの澤田駿吾、歌手の笈田敏夫、スイングジャーナル編集長の児山紀芳、シャープアンドフラッツの原信夫の皆さん。今は鬼門に入られた当時の大御所がずらりと並んでいて足が震えて、このまま演奏しないで帰りたいなあと思いながら出番を待っていた。

 演奏が終わると本田俊夫さんが「…ジャズメッセンジャーズを思わせる演奏でした」と言って下さってホッとしたのもつかの間、「自分はこのバンドにコメントしません」と言った審査委員がいた。なぜなのかわからなかったが、その後の解釈としては、アマチュアが出場の条件なのにプロであるマスターが出場していたからではないかということで落ち着いた。確かにキャットのマスターはプロのドラマーだが、演奏ではコルネットを吹いたので問題ないだろうに。ともかく、この時代は本選出場イコール入賞で、他の賞には入らなかったが賞状をもらって帰途に就いた。

 2度目は平成3年「第10回浅草ジャズコンテスト」に自分のトリオで出場を果たした。東北からはキャットバンドに続く2回目の出場で嬉しかった。審査結果の通知には「200を超える応募の中からバンド部門の10位以内に入った」と記載されていた。

 2度目の浅草公会堂である。楽屋は大部屋で周りで練習している学生のベースが上手くて驚いていた。中に中学生が1人いて、審査員の大御所たちがわざわざ見に来ていた。どうもサラブレッドだらしい。そうしたらなんとトロンボーンの中川英二郎さんの若き日の姿であった。翌年にニューヨークで録音したCDを出していたように記憶している。

 で、我々の演奏だが審査委員の先生たちに「まあがんばってね」みたいにあしらわれて帰途についたのだった。この時には本選出場イコール入賞ではなくなっていて賞状が出なかった。今は本選出場者のことをファイナリストと言うらしい。青春最後のすっぱいレモンのような思い出である。

          

山形ジャズサミット2023
当時のパンフ 右から2列目の下から2つ目
審査委員の方々
浅草公会堂ステージ

絶対音感

 幼いころから音楽を習っていた人には「絶対音感」が身に付く。
 一般に、唄を唄えるということは音の階段を適正な段数上がったり下がったりできるということで、これを「相対音感」と言う。絶対音感というのはそうではなく、音が周波数と一体に刷り込まれるのだ。つまり、「ド」は出だしの音で、Keyによってどんな音でもいいのだが、絶対音感のある人の「ド」は「C」であり、それがピアノの真ん中のドであるとしたら261.626Hzでなければならない。絶対音感を身に付けるとどんなことが起こるか。

 メリットとしては楽器を使わずに正確な譜面が書ける。音源を聴けばそのKeyはたちどころに分かり、オタマジャクシが脳裏に発生してそれを紙に移せばいいので簡単な作業となる。

 デメリットとしてはピアノ以外の楽器を習う時に邪魔になる。例えばトランペットの「ド」は「Bb」である。ヤマハの先生はこれが「ド」だと教える。しかし絶対音感を持つ者には「Bb」はあくまで「Bb」であって「シb」であり、それを「ド」だと思うことはできない。「徳川家康はアメリカ大統領である」と言われているくらいの違和感があるのだ。自分が若かりし頃トランペットに挫折したのにはこんな秘密があった。

 あれは3年前(もうすこし前だったかも)、佐山雅弘さんの曲を譜面に起こしてbass奥泉に渡した。彼がCDをかけながら演奏してみると譜面と合わない。次に会ったときに「譜面が半音ずれていたぞ」と告げられた。…自分の絶対音感が崩れた瞬間だった。そのころから音が半音上がって聞こえるようになっていたのだった。
 困ることは何もない。しかし今まであったものを失くしてしまったという気持ち悪さは残った。そこでその頃しばらく、プロミュージシャンと絶対音感を話題に飲むことを心がけた。その結果、絶対音感を失くすことはよくあることが分かった。ある者は病気で、またある者は歳で、そして薬で…。風邪薬が効いている時だけ狂うという人もいるらしい。自分の場合は歳かなあ。

中本マリさんのこと

 うちの社長がベーシスト米木康志さんのファンで、米木さんがツアーで東北に入ると社長にラインが来る。その時は中本マリさんとのツアーで「東ソーアリーナ」でライブとの連絡、山形まで聴きに出かけた。

 モダンジャズはインストルメンタルだという思いが自分にはあって、ずっとボーカルには興味を持たないで来た。vo早苗ちゃんが加入してオリジナル曲を作るようになり、初めて「曲と言うのは歌詞が付いて完成なんだ」という事に気づいた。つまり音に歌詞を乗せなきゃならないので、精密な曲のカタチが求められるのだ。ジャズを始めてン十年にして初めて歌の重要性に気がついたのだった。

 中本マリさんは、スイングジャーナル読者人気投票ボーカル部門第1位に9年君臨した、日本を代表するジャズボーカリストである。演奏が始まると中本マリの世界にずんずんと引き込まれて行った。これは凄い。社長も自分もマリさんを聴いたのはこの時が初めてだったが、その世界にすっかり魅了されてしまった。

 翌年、古川(大崎市)の「トウサ」という老ドラマーがやっている店でライブがあるというので、今度は早苗ちゃんも連れて出かけた。

 かぶりつきのテーブル席に、中本マリさんの親戚の方々と一緒に座って「オレはマリといとこだけどジャズはさっぱりわがらね。すぐ眠たぐなってよう」などの会話に大笑い。マスターの佐藤さんは「遠くからよく来てくれたねえ」と言って地ビールをプレゼントして下さって、トウサはアットホームでとても居心地の良いジャズバーであった。

 やがて演奏が始まった。ピアノは昨年と同じ加納新吾さん。「ギャラ払うから叩いてよ」とマリさんに言われて途中からマスターがドラムを叩いた。この時も素晴らしい演奏だった。早苗ちゃんは感動して涙が止まらない。演奏後マリさんと話をする時間があって、早苗ちゃんを「駆け出しだけどジャズボーカルやっている…」と紹介すると「厳しい世界だけどがんばろうね」と声をかけていただいた。「鶴岡にも来てくださいよ」というと米木さんが「ChiCという店があるんですよ」とマリさんに言って、翌年ChiCライブが実現することとなる。このChiCライブの打ち上げで早苗ちゃんがマリさんに弟子入りし、それからおよそ2年が経過し今に至っており、月日の速さに驚くばかりである。

 さて、320日の中本マリ荘銀タクトライブは、オープニングアクトいわゆる前座で我々が出演させていただく。地元ミュージシャンとのコラボをタクトに提案され、最もギャラの安い(というか出なくても文句を言わない)我々がやらせていただくことになった。エンディングでは中本マリさんと春山早苗の師弟共演も予定されている様である。ベースは米木康志さん、そしてピアノはマリさんに「この世界に50年いてこんな凄いミュージシャン初めて」と言わしめた曽根真央さん。きっとものすごい感動の渦を巻き起こすことだろう。

 これを目にされた皆様、席にはまだ余裕があるとのこと、どうぞお運びをお願い申し上げます。

古川のジャズバー「TOUSA」
マスター&ドラマー佐藤さん
BAR ChiC Live
荘銀タクトライブ ポスター

有名人が聴きに来た

 20218月第4土曜日、この年の4月にスタートしたBAR ChiC 月例ライブが最初の危機を迎えていた。7月に入り増加傾向にあったコロナ感染者数が8月になってさらに増加し、コンサートやイベントが軒並み中止となる中、ボーカルが濃厚接触の疑いで欠席、ドラムスが会社の方針で外出禁止、ライブをやってもそもそも客が来ないのではないかという状況に陥っていた。

 しかしである。月に1度はジャズの生演奏が聴ける街にしようとの固い思いがあって始めた月例ライブを、5回目で挫折したくはない。とりあえず無事に残っているピアノとベースでデュオライブをやることにした。

 案の定開始時間になってもお客は来ない。「今夜はマスターに聴いてもらうしかないな」と言いながら最初のステージを始めた。やがてパラパラとお客が入り、ホッとした想いで演奏を進めていたら、突然若いカップルが入店し、椅子を我々の目の前まで持ってきてかぶりつきで聴きだした。もちろん真剣に聴いてもらって嬉しくて演奏にも熱が入った。

 休憩時間にマスターが小声で「男性の方は森山未來さんです」と教えてくれた。映画の撮影で鶴岡入りをしていたらしい。驚きだった。

 自分は芸能人を良く知らないのだが森山未來さんは知っていた。なぜなら、独身時代にビッグコミック・オリジナルで好きで読んでいた「三丁目の夕日」の映画化3作目「ALWAYS三丁目の夕日’64」で、森山未來さんは主役の堀北真希の相手役「菊地医師」を演じていたからだ。自分はDVDも持っていて、同じ箇所で何回も泣きながら見ていたのであった。

 後から知ったのだが森山未來さんはダンサーで、ジャズを含む音楽全般に造詣が深いとのこと、あのコロナ禍で街中がガラガラだった8月の第4土曜日、楽しんで頂けていたら嬉しい。

ALWAYS三丁目の夕日'64
六子(堀北真希)の診察をする菊地医師(森山未來)
プロポーズに失敗

ピアニストの会話

 男性ピアニストの多くは似たような境遇の子供時代を過ごしていた。それは「親または親類縁者にピアノ教師がいて、物心ついた頃にはピアノを仕込まれており、友達が外で遊んでいるのに自分だけピアノの練習をしなくちゃいけなくてつらい…」というものである。
 かく言う自分も両親の仲人がピアノ教師で同じ境遇にあった。これまで何人かの男性ピアニストと打上げでそんな話をして盛り上がったのだが、この子供時代に芽生えた反感の様な気持ちが、クラッシック音楽からジャズに方向を曲げさせたのではないかとも思っている。

 慶応先端研の冨田勝先生とお酒をご一緒したときに、先生が次のように語って下さった。
 「ご存じないかもしれないけど自分の父は作曲家の冨田勲(誰でも知ってるが)で、だから自分は幼少期にピアノとバイオリンは仕込まれた。学生時代まだカラオケというものがなくて、仲間内の飲み会では自分がピアノで伴奏してみんなを唄わせたものだ…」で、先生が続けて語られた。「クラッシック音楽はみな同じ楽譜を使って同じ音を奏でることを求められる。これは自分のやることじゃないなと思った。そんな事の得意な人は他にいて自分は降りようと思った。だから別の道に行った…」
 自分はこの時ものすごく共感した。先生は降りたかもしれないが、自分は完全には降りずに方向をジャズに変えたんだなあと。

 イントロの話も盛り上がる話題だ。多くの場合ピアノがイントロを出すのだがこれが難しい。知っている曲ならいいが、知らない曲でフロント(ボーカルやサックスなど)に渡さなくちゃならないとメチャメチャ緊張する。大体ケツの4小節のコード進行でその場で作るのだが、ヒネッた曲だとそれではダメなこともあって、とっても苦労するのもピアノの役割なのである。
 大御所の続木徹さんでさえ先輩歌手に唄に入ってもらえず悩んだことがあったそうで、もちろん自分なんか何度もあるし最近でもある。
 「ベース(奥泉ではない)に怒られてしまいましたよ」と外山安樹子さんに愚痴を聞いてもらっていたら彼女が「…みんなピアノがどれだけ難しい楽器か知らないのよ」って。そうだそうだ!

冨田勝先生
続木徹さん
外山安樹子さん

ジャズを始めたころ

 もっとも多感な1517歳の頃、自分は全寮制の学校にいて3人のルームメイトと生活していた。その中のひとりがオーディオマニアで、ルームメイト全員、そいつの買ってくるキャンディーズのレコードを聴くとはなしに聴きながら暮らしていた。キャンディーズいいじゃん。和製シュープリームスを目指したと言われる3人娘。

 ところが議論好きな友人がジャズを聴き始めた。「まずい!キャンディーズ卒業しないと話題についていけない」と思い、当時日曜日にNHKFMでやっていた「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」を毎週聴くようになった。最初は「なんという訳の分からん暗い音楽や」としか思わなかったが、徐々に慣れるとともに本田俊夫さんの適切な解説もあって胸に響いてくるようになった。

 あの頃一番好きだったのは「アメリカの宮廷音楽」と言われたMJQ(モダン・ジャズ・カルテット)。バンマス兼ピアノのジョン・ルイスが、ジプシーギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトを偲んで作った「ジャンゴ」を初めて聞いたときは涙が止まらなくなって、放送が終わると即レコード屋に走ったのを覚えている。

 この「感動」が「自分でも弾きたい」になって試行錯誤が始まるのだが、ここからが長かった。今とは違い、教える人もいなければ譜面も売られていない。やりたい曲はレコードから採譜し、理論を踏まえてコードを割り振る。でもこれがとっても勉強になったなあと今になれば思う。秋田のキャットウォーク・ジャズ・バンドに入れてもらって毎週演奏するようになったのが25歳だったから、ジャズをやりたいと思ってから78年は試行錯誤を繰り返していた可哀そうな人生だった。Jazz Live House THE CAT WALK (jazzcatwalk.net)

 キャットのバンドで、88年に東北からは初めて浅草ジャズコンテストに入賞したのだが、司会兼審査委員長はあの本田俊夫さんだった。
 96年の蔵王ジャズフェスティバルでは、キャンディーズが目指したシュープリームスとご一緒した。そうしたらなんと彼女たち、本番前夜、出演者とスタッフのために、ロッジの食堂でミニコンサートを開いてくれた。アメリカのミュージシャンは粋だなあと思った。

キャンディーズ
THE CAT WALK(秋田市)
巨人たちのサインが記された壁

ベーゼンドルファー:その1

 ピアノの部屋なのに初めてピアノの話題です。いつも酒の話ですみませんですホントに。

 さて、1度だけベーゼンドルファーを弾いたことがある。そのピアノは、オーストリア建国1千年を記念して、世界12台限定で製作されたデコレーションモデルで、その1台を三越百貨店が調達してパイプオルガン前の催事場に展示し、3千万円の値段が付けられていた。

 そのピアノを使って昼夜2回興行を土日の2日間行ってほしいというのがオファーだったが、世界限定12台のピアノとは知らなかったし、ベーゼンドルファーの社員さんに聞いたらまだ誰も弾いていないと言う。そんな世界の至宝みたいなピアノを自分がジャズを、しかも最初に弾いていいのだろうかと思ったが、そのために日本橋まで呼ばれてきたのだし、余計なことを考えるのは止めようと思った。

 なぜ自分にオファーが来たか。そこの土日は三越の8階で庄内物産展をしており、店側としては物産展を盛り上げるために庄内の人間にベーゼンドルファーを弾かせたかった。意向を汲んだ観光協会の担当者は困った。なにせ時間がないし有名な先生に頼むカネもない。焦って電話した先が自分のところ…という訳だった。

 ピアノが据えられた三越1階のパイプオルガン前催事場は「これから日本の芸術を背負って行く若手のプロミュージシャンのコンサートを定期的に行っている」と三越の1階の部長さんに言われまたビビる。

 ここまで書いていて、あのピアノ検索すればどこにあるかわかるのではないかと思って探したらありました。東京都練馬区光が丘にある光が丘美術館、ここに同じピアノがありますが、自分が弾いたものかはわかりません。確率1/12ね。世界に12台しかないピアノですが、当時の(1997)の日本は今と違ってまだ世界第2位の経済大国でしたから、別ルートのものの可能性もあります。どうなんでしょうかね。続きはまた書き足していきますのお付き合いのほどをよろしくお願いします。

 一言お礼を申し上げます。ワンコインコンサートの予約いっぱいいただいてありがとうございます。メンバー一同頑張りますので応援のほどよろしくお願いいたします。

光が丘美術館のベーゼンドルファー

ベーゼンドルファー:その2

 前回いきなりベーゼンドルファーの話題だったのですが、ベーゼンドルファーって何?という話から進めます。

 一般的に言われる世界三大ピアノメーカーとは、アメリカのスタインウェイ&サンズ、ドイツのベヒシュタイン、オーストリアのベーゼンドルファーということになっています。スタインウェイは高音から低音までよく響いてタッチが軽い、ベヒシュタインはピアノのストラディバリウスと異名を取る職人技の結晶、ベーゼンドルファーは木を響かせる柔らかさが特徴とされています。特にピアノの魔術師と謳われたリストがベーゼンドルファーを愛用したことがベーゼンドルファーを有名にしたとも言われています。ちなみに日本のヤマハとカワイも評価は高く、販売の世界シェアでは、1位がヤマハで2位がカワイだそうです。製造には長けていて販売が下手だったベーゼンドルファーは、2007年にヤマハの傘下に入りますが、話はそれより10年前1997年の日本橋での出来事です。

 「世界に12台しかない3千万円のベーゼンドルファーを自分なんかが弾いちゃって価値が下がってしまうんじゃないんですか」と尋ねる自分に三越の1階の部長さんは言った。

 「自分は商人だから分かるのだが、3千万円の希少価値のあるピアノを飾っておいても人はなかなか欲しいとは思わない。ところがあなたが弾いて、それを聴きに人が集まりみんな笑顔になる。すると人はあのピアノが欲しいと思うんだよ。」脳みそからウロコが落ちた。

 打合せが始まった。1階の総責任者は1階の部長さんなのだが、催事場は外注のプロダクションが仕切っており、その女社長さんがまたものすごいパワーで、千と千尋に出てくる湯婆婆のようなと言えばわかってもらえるだろうか。

 「…バンドは板付きでスタンバイ、ライトが当たったら演奏開始、1曲終わったところでMC入ってみんなを紹介、2曲目インスト、3曲目ボーカルを入れてそこでMC…それでね、重要なことを言いますよ。これに絡んでレコード出す場合はうちを通してくださいね」話が速すぎてついていけなかった。  ~つづく                                                       

P.S. 写真見たら1997.6.17って日付がありました。実に24年前の6月だったんですね。今よりも確実にヘタクソだったと思いますが、指の動きは速かったかもしれません。テクニックを前面に押し出したい年頃でしたもん。

1997三越百貨店コンサート(旧有地トリオ)

ベーゼンドルファー:その3

 リハーサルが終わると、わざわざ心配して見に来てくれた物産展を仕切る8階の部長さんを始め、1階の部長さんや関係者がみんなニコニコしてくれてホッとした。出演メンバーは当時の自分のトリオ(長澤・朝井・私)に、酒田出身のジャズボーカリスト沙川さちさんにゲストで出演していただいた。

 10時に店が開くと午後の演奏時間までヒマなので三越百貨店を隅々まで探検することにした。まずすぐに分かったのは、当時の三越デパートの主たるお客は庶民ではないということ。黒塗りのでっかい外車の後部座席から奥様が降りて来るとなじみの店員さんがエスコートに走る。そういう光景を何度も見た。車は上にある駐車場に行くのだが、この駐車場の規格がでかい。1台ファミリーカーが駐まっていたが、団扇にテントウムシが止まっている様に見えると言ったら大袈裟だろうか。高級品が並ぶ店内。自分が今持っているキャッシュで買えるものはないか探したら1つだけ見つけた。佃煮が8千円だった。店は厳かで立派なのだが事務室のある棟は昭和初期の雰囲気、ワイシャツに腕差しが似合う感じだった。

 一番心配なのはもちろんお客が入るかどうかだ。ピアノを取り囲むようにコの字に椅子が100席ほど用意され、立ち見を入れると200人くらいが入れるコンサートスペースになる。

 「三越で高級品を買うお客が、東北の片田舎からやってきたアマチュアのジャズバンドを見るか?」「普通見ないよな」などと別棟の控室で気弱にだべっているとやがて演奏の時間が来た。

 会場に入って驚いた。椅子席はすべて埋まっていて、立って開演を待っている人もいる。「…東京って娯楽が少ないんだろうか?」バカな思いがよぎった。

 1日目の演奏が大新聞の東京版に写真入りで大きく掲載されたこともあって、2日目も満員の入りで2日間の昼夜興行を終えることができ、打ち上げのライオンビアホールのビールがうまかった。

 世界12台限定生産ベーゼンドルファーの印象だが、新品にしては鳴るピアノだなと思ったのと、クラッシックの繊細な旋律が似合うピアノなのにジャズでガンガン叩いちゃってごめんね、と思ったことを覚えている。  つづく(あともう1回お付き合いください)

P.S. その後の調査で、世界限定12台モデルは日本には1台しか入ってないことがわかりました。今、光が丘美術館にあるのが、自分が弾いたピアノということになります。

三越コンサートの様子(旧有地トリオ)
インタビュー

ベーゼンドルファー:その4

 リハーサル中に1度シンバルがピアノに当たりそうになり、ドラムスがベーゼンドルファーの社員さんに謝ったら、にこやかに「いいんですよ。傷が付いたら買っていただきますから」と返され、その時社員さんの目は笑ってなかったなんていうのも今になれば懐かしい思い出です。

 三越の部長さんたちもコンサートの成功をとても喜んでくれて、「有地さんのバンドにはまた出演してほしい」と言われてうれしかった。

 控室で帰る準備をしていると、1階の部長さんがお土産をかかえて持ってきてくれて、1階の部長さんが仕事に戻ると今度は8階の部長さんが、抱えきれないほどのお土産を持ってきてくれていなくなると、また1階の部長さんが現れて「それどうしたの?」「8階の部長さんにいただきました」と返すとまたどこからかお土産をいっぱい抱えて…という事が繰り返されて、我々はお土産だるまになってしまった。中にはペコちゃんのペロペロキャンディ大ボトル入りみたいに、三越では絶対売っていないと思われるものまでいただいた。

 プロダクションの社長さんもニコニコしていたが「いいですか有地さん、レコード出すときは必ずうちを通してくださいね」と言って帰って行った。

 以上がベーゼンドルファーに纏わる思い出ですが、当時35歳で若手といえる時代の最終ページだったような気がします。この翌年にはつくば市への単身赴任が決まっていて、それまでの週1練習、月1ライブみたいな活動はできなくなり、メンバーもそれぞれ別のバンドがメインになり、自分のトリオは活動休止状態に入っていきます。

 4回にわたり読んでいただいてありがとうございます。自分でも書いていてあのベーゼンドルファーがとても懐かしくなり、今度東京に行ったら光が丘美術館を訪ねてみようと思っています。

 それと日本橋三越にも、お店の前はよく通るんですがあれ以来店内に入った記憶がないので今度寄ってみようと思います。

P.S. 

・写真がボケていてよくわかりませんが、インタビューしてくれてるプロダクション所属のMCさんはと~ってもきれいな方で、みんな彼女の方を向くときだけ目がハートになっていました。

・貼ってある写真ですが、当時はまだ公衆電話とポケベルの時代で「写ルンです」(当時どこでも売っていたインスタントカメラ)で撮ってもらった写真です。四半世紀前ですもんねえ。

・ワンコインコンサートのお申込みありがとうございます。頑張りますので温かく見守ってください。CDも好評発売中なのでよろしくお願い致します。

訂正:三越の8階は誤りで7階でした。それと演奏したのは土日ではなく物産展の最終の2日間(土曜日から始まって最終日が金曜日)だったようです。訂正させていただきます。

3年ぶりに「J-Flow」(ほぼ毎日ジャズセッションなお店)

 コロナでなかなか行けなくて、気が付いたら201911月以来のJ-Flowであった。錦糸町と両国駅の中間辺りの三目通り交差点。ドアのように見える引き戸を開けて2階へ上がると、なんとほぼ満席!都会ではコロナ禍でジャズ人口が増えたのかと思った。

 午後3時からのセッションなのだが、上野の蕎麦屋で日本酒を飲み過ぎてホテルで休息をとって5時にお店へ。終了の8時までいつもの感じなら3回は回ってくると思ったのだが、ピアノだけで6人もエントリーしていて、ようやく弾けたのは7時を過ぎていた。今宵のホストバンドは松島啓之(tp)さんのトリオ。武田真理子(pf)さんと後藤絵美(b)さんが加わる。

 松島さんはハードバップ系のトランぺッターとして超高名なお方で、こんな方と一緒に演奏できる幸せを神に感謝した。

 「何をやりましょう?」と言われ気が付いたら黒本(譜面集)がピアノに乗っていない。この3年の間に都会では譜面が姿を消し、みんな自分のスマホやタブレットを見ながら演奏している。譜面がないのでソラで弾ける「ソフトリーをミディアムでお願いします」と言ってイントロを出した。ベースは相席ですぐ友人になった某さん。それにギターの方が入って、ドラムレスのカルテットで演奏が始まった。

 松島さんのトランペットいいなあと思いながら、はじめは邪魔しないようにコンピング…。徐々にアウトしてくるのでこっちも雰囲気を合わせて怪しげな音を混ぜる。フリージャズの一歩手前くらいの感じで、もう戻れれば何やってもオッケーな雰囲気で盛り上がって行く。アドレナリンが出まくって、幸せな空間に浮遊している感じがした。

 演奏が終わってみんなでグータッチ。女子大生かなと思われるそこそこ上手だったピアノのお嬢さんが「ああいう演奏ってどうやってやるんですか?」って訊きに来てくれた。うまく言えないけど、「いつでも戻れる状態でいながらフロントやベースの音に反応してアウトするんだよ」って説明したけどわかってもらえただろうか?

本日のホストバンド
店内の様子

指輪ホテル

 渋谷の道玄坂でとある試験が終わり、1年間の禁欲&勉強生活のコケラ落としに「今日は朝まで飲むぞー」と、こっちでギタリストをしている弟に電話したら丁度ライブの日だそうな。「兄貴も飛び入りしない?」と言われ「やるやる」と二つ返事。ライブハウスでスポットを浴びることになった。

 この時の弟のバンドは、フュージョン系の曲調にツインボーカルを入れた、今のモンドグロッソみたいな感じで、ドラムスとベースのパターンに乗っかってアドリブを展開していく。自分は久々に味わう自由をかみしめながら、ノリノリで鍵盤を叩いた。

 近くの居酒屋を予約しているからと言われて打ち上げについて行く。バンドのメンバーの他にお客さんもゾロゾロついてきて、大所帯な打ち上げになった。

 向かいに座ったお嬢さんが「バンマスのお兄様おひとつどうぞ」とビールを注いでくれた。「いや~どうもありがとう」と言って目を上げると、「あれ、この人知っている…」そして自分は居たたまれないに想いに全身を縛られ、顔が真っ赤になっていくのがわかった。そうこの人はあの人だった。

 この2年くらい前、弟から「指輪ホテル」という劇団の紹介フロッピーディスク(当時まだウインドウズは発売されていない)が送られてきた。「指輪ホテル」は演劇好きな人たちの間では有名な劇団で、団員は女性だけのヌードパフォーマンス劇団である。弟は劇団の音楽を担当していたのだ。

 フロッピーをパソコンに差し込むと、劇団代表の羊屋白玉さんの挨拶と劇団紹介のページが出てきて、更にページをめくるとゲームコーナーが始まる。きれいな女優さんが出てきて、秘密の場所をクリックすると1枚ずつ服が消えて行って最後にはスッポンポンという、男にとっては天国のようなゲームだった。秘密の場所とは、例えば唇とか、イヤリングとか…

 で、ビールの彼女はその女優さんだったのだ。初対面のきれいなお嬢さんの…自分はハダカを知っていますというとんでもない状況に陥ってしまったのだった。

 きっと「一口のビールで真っ赤になるなんてお酒の弱い人ね」と思われたに違いない。

カワイGS-100

 久しぶりにピアノの話題です。

 先日(2021秋)、荘銀タクトに「カワイGS-100」というフルコンサートグランドピアノが入った。これまで荘銀タクトには、スタインウェイのフルコンとヤマハのセミコンしかなくて、連弾すると見た目も音もチグハグで可哀そうな状況だったが、これでフルコン同士の連弾ができるようになった。

 ところで、グランドピアノには寿司の松・竹・梅・並と同様に「フルコン・セミコン・パーラー・ベビー」とランクがあって、それはピアノの大きさ(奥行)で決まる。270センチ以上がフルコン、220270センチまでがセミコン、170220センチ未満がパーラーグランド、170センチに満たないのがベビーグランド。
 奥行きが長いと弦も長くなるので、音が大きく豊かになって、ペダルを踏んでいるといつまでも音が消えない。ソロ演奏でもバンド演奏でも、セミコン以下とは音のステージが違うのでコンサートでは誰もがフルコンを弾きたいのだ。

 で、このカワイのフルコンだが、実はマリカ市民ホールにあった。マリカ建設当時、自分はカワイの菅井店長と呑みともだった。
「マリカ市民ホールからオーダーがあって…」という話を聞いていて、その後どうなったか聞いたら、「社長に掛け合ってフルコンで行くことに…」で、とうとうそれで落札したとのことだった。価格は教えてもらえなかったが、おそらく他社がセミコンで入札したのよりも安くフルコンを入れたのだと思った。

 そのピアノがカワイGS-100である。
 白鍵は象牙、黒鍵は黒檀なので手汗ですべらない。象牙は平成2年にワシントン条約で取引が禁止されたが、このピアノはその前に作られていて、今では貴重となった昭和時代にしか無かったタッチを味わうことができる。

 くしくもクリスマスに開催される「ピアノリレーコンサート」に間に合って良かった。今年はフルコン同士の連弾が楽しみである。
 そういえば、1月にはカワイのピアノを本番で弾いてショパンコンクール5位に輝いた高橋多佳子さんのコンサートがある。彼女には是非何曲かカワイGS-100で弾いて欲しいなあと思うこの頃である。

搬入中のカワイGS-100
組立終わった直後
高橋多佳子さん:カワイピアノでショパンコンクール5位

焼き鳥の祟り

 …でレバーに癌が見つかった。幸い早期発見で他に転移はなく、切除して一応は完治するとのお医者の見立てだった。丁度夕方から坂田明さんとの演奏がある日の午前中のことで、淡々と説明してくれるお医者の話を努めて「他人事のように」聞いたのだがやはりショックだった。

 癌切除を何度か繰り返された某氏の話を思い出していた。「…手術するたび自分は同じ風景の中にいるんだ。目の前に小川が流れ、対岸は美しいお花畑。死とは川を渡ってあの美しいお花畑に行くのだとしたら、自分は死を恐れない…」手術で自分もその風景に出会うのだろうか。

 手術の日が来た。コロナで全館面会謝絶なので家族の見送りもなく、看護師さんと歩いて手術室に入り手術台に乗せられる。局所麻酔を背中から入れる。これをやると全身麻酔から覚めても痛みを感じないのだそうだ。「全身麻酔入りますね…」と言われた一瞬後、自分は一人ベッドの上にいた。

「ここはどこ?私はだ~れ?手術どうしたんだろ?」「まずい!川とお花畑見てない!知らずに超えちゃった?ここはあの世?」いろんな考えが錯綜した。まず手足の指を動かしてみる。全部動く。ホッペタひねって痛かったら死んではいないだろうとホッペをひねろうとしたが、お腹の上に色々と乗っていて手が上まで行かない。親指の爪で人差し指の腹を引っ掻くと痛かったので自分は生きていることがわかった。途端にうれしさがこみあげて来た。自分はもう癌患者ではなくなった。

 やがて執刀して下さった先生が来られて言った「いやー6時間もかかったよ。すごい脂肪で大変、ダイエットしてくれって言ったのにさ…」「面目ねえ」

さしすせそ その1

 下の子供が小学校を卒業すると子供たちは親とは行動しなくなって、子育てで遠ざかっていたオートバイに再び夫婦で乗るようになった。そんな折り、5日間のリフレッシュ休暇を取ることになって、何か達成感を感じることに使おうと考え、大型2輪免許を取ることにした。

 我々が若かりし頃、大型2輪は合格率がヒトケタの一発免許に受からなければならなかった。1度挑戦したが「てんで無理!」とあきらめ中型限定に甘んじていた。今の(H21当時)免許は12時間の教習で取れる。3時間教習を2日で、2時間教習を3日で消化すれば丁度5日間で目標達成である。実際にやってみると、ゴー&ストップを繰り返す教習を1日に2時間か3時間毎日というのはとても過酷であった。

 それにしても教習内容である。クランクやS字や坂道発進はわかるが、一本橋とスラロームと波状路は理解できない。ツーリングで崖に行き当たって、向こう側まで幅30センチ15mの一本橋が掛かっていたら「引き返しますよねえ」と言う自分に「そうだよなあ」と教官。スラロームなんか蛇行運転の練習のようなもので、そうやって走ると警察に捕まる。「暴走族の走り方じゃねえか」などとグダグダ言いながらも、クラッチを握る左手は毎日パンパンだった。でもなんとか5日間で免許が取れ、自分のグダグダに付き合いつつもご指導下さった教官に感謝である。

 家内がホンダのクルーザーのヨンヒャクに乗っていたので、SR400というヤマハの渋いモデルから同じシリーズのナナハンに乗り変えることにした。家内のはヨンヒャクなのにツートーンカラーで豪華で、自分のは上級モデルなのに黒一色。「女王アリと働きアリ」と揶揄されたものだった。見た目はハーレーに似ているが、排気量は半分、値段は3分の1。でも性能は8割くらいあるので、とってもリーズナブルでコスパが高い。

 ある日ネットサーフィンをしていると、同じオートバイのミーティング開催の掲示板を見つけた。「2013年4月20日:広島マリーナホップ集合」と記載されていた。家から地図で距離を測ると1,050kmもある。オートバイでは西は知多半島までしか行ったことがなかったから、広島ならすごい記録更新である。家内は遠すぎてパスで、自分は数日考えて参加することにした。自分より距離のある仙台から「あきさん」という方が参加表明されていたのにも肩を押された。「美人かな?」  つづく

女王アリと働きアリ(奥が家内の手前が自分の)

さしすせそ その2

 往復ともに途中金沢に泊まることにして前日金曜日の午後に出発。4月中旬とはいえ寒い日で村上に抜ける葡萄峠では雪に降られた。日本海を南下して行くと新潟県の長さにあきれる。柏崎を過ぎたあたりから日が差してきて金沢の古いホテルに着いた時にはすっかり晴れていた。近所の居酒屋で早い夕食を済ませ翌日に備えて寝ることにする。明日は6時には出発しないと…

 早朝出発。天気も良く気分は最高!今宵は広島のしゃぶしゃぶで宴会だ。そういえば仙台のあきさんはどこら辺を走っているんだろう?

 昼過ぎに昼食をとるため岡山は吉備サービスエリアに入る。じっとこちらを見ていたおじいさんが「えー!庄内から来たの?」と声をかけてきた。「庄内知ってるんですか?」と尋ねると「知ってるよーあんな遠くからよく走って来たねー」そりゃそうだ。ここまでで800キロは超えている。

 再び高速に乗ると雨が落ちてきて、広島に近づくごとに雨脚は激しさを増して、広島市に入ると土砂降りとなった。こりゃダメだ集合場所はパスして宿に向かおう。主催者さんに連絡を入れると向こうもこれから宿に向かうとのこと。

 よくこんな安い宿があったねと思うくらい安いスーパー銭湯にくっついた宿。次々に参加者たちが到着する。「仙台のあきさんは到着されてますよ。明日一緒に帰られたらいかがですか」と言われてあきさんと対面する。あきさんはスキンヘッドの青年だった。「ありゃ!」

 しゃぶしゃぶ店で一同が揃う。「…ここはきついとこでっせ、ボケても誰も突っ込んでくれまへんのや…」と東北では決して耳にしたことのないタイプの会話がはずむ。同じオートバイに乗ってるという共通点しかないのに、最高に盛り上がって全員3次会までなだれ込み、広島の夜は更けて行った。来て良かったなあ…  つづく

勢ぞろいした参加者の愛車

さしすせそ その3

 仙台のあきさんとは、過酷な風雨の帰り道を通して戦友のような間柄になった。実は国家公務員で東北大学の係長だった彼は、脱サラして以前から考えていた居酒屋を開店する準備が整って、その記念に広島ツアーに参加したのだった。

 「で、店の名は?」「さしすせそって付けました」「はあ?」「料理の基本の言葉ですよ」「そうか、そのさしすせそか」といった会話があって、開店したら必ず行くと約束した。場所は仙台の「いろは横丁」。アーケード街から横に延びた横丁に小さな店がぎっしり詰まっている、呑んべの天国のような場所だ。

 近所に彼が師と仰ぐカリスマ店主がいて、何度目かに訪ずれたときに自分もそのお師匠にお会いすることができた。
 まず見た目が怖い。小柄ではあるけどポニーにグラサン、顔以外の見えてる皮膚は全部に墨が入れられ、カウンターの隅でゆっくりと呑んでおられた。自分が隣に座ると北海道の話をしてくれた。
 「…ガス欠した奴がいてな、止まってガスを分けてやったんだ。50キロ先にスタンドがあるから行きなって…」「…俺はあちこち回って…夕方たまたま教えてやったスタンドを通りかかった…」「…そしたらそいつがそこにいるんだ…俺に礼が言いたくて一日中待っていたんだ…バカな奴だよ…」「…だからなあ…単車乗る奴に悪い奴はいねえんだよ…」

 恐ろしい外見とは裏腹に、ハートからにじみ出て来る優しさに心を打たれて、思わず泣きそうになってしまった。こんな人がいるんだなあ、救世主がいるとしたらきっとこんなタイプの人かもしれないと思った。2年前に亡くなられたそうだ。さしすせそのカウンターの隅には彼の親族のお礼の言葉がピン止めされていて、それを読むたびに涙がにじんでしまう。合掌。

 2015年のミーティングは自分が幹事となって仙台で開催した。もちろん夜は「さしすせそ」で宴会。全国からいっぱいライダーが集まって、あきさんの小さな店は満員御礼。楽しかったなあ。

 コロナ渦も乗り切って「さしすせそ」は今も美味しく営業している。これを読まれた方、ぜひ一度訪れてみてくだされ。安くてうまい酒を呑ませる店ですぞ。「いろは」の「さしすせそ」ね。   完

2015ミーティング最初の乾杯
みんなで盛り上がるさしすせその2階
あきさんとツーショット
いろは横丁さしすせそ

朝食やめた

 ボーカルの早苗ちゃんに「16時間プチ断食したら、週2回ラーメン食べても1月で体重が4キロ減ったよ」と教わり真似をしてみた。

 「16時間プチ断食」…それって朝食抜きだよね。なんだ簡単じゃんと思ったので、ついでに休日以外は糖質(炭水化物)も取らないように、晩酌も日本酒から焼酎に代えてやってみたら、ホントに1月で4キロ体重が減ったのであった。

 久しぶりに前かがみが辛くなくて、靴下が楽に履けるし、あんよの爪切りも楽々。肥満とは食べ過ぎと糖質の取り過ぎであることを悟った。

 食事の量を減らすダイエットは脂肪ではなく筋肉が減るらしいので、1日に摂取するカロリーは減らないよう、昼食は焼肉やソーセージなどをご飯なしでいっぱい、夜は豆腐やナッツや枝豆で焼酎をグビグビ。午前中だけは空腹感を強く感じるけど、まあでもそれだけで4キロも減ってうれしい今日この頃なのである。

 なぜかガンマGTPも下がった。飲酒によるレバーダメージの指標なのだが、全盛期は500を超えて、焼き鳥屋で1,000超えの常連さんと乾杯したこともあるが、基準値は64である。多分・メイビー・パハップス、大好きな日本酒やめてそれ程好きでない焼酎にしたので、自然と酒量も減ったものと思われる。

 このダイエット生活、今後も続けるつもりでいるが、計算してみると再来年の5月頃自分のカラダの重量はゼロに…大変だ―!

16時間プチ断食
イメージ(私のおなかではない)

Pb

 四半世紀近く前になるが、つくば市に単身赴任していた時、山形県出身者はもう1人いて、村山市出身の彼には訛りがあった。「同じ山形なのに有地さんは訛らないんだね」とよく言われたが、これにはやや屈辱的な教育を施されたというワケがあった。

 自分はプロテスタント系のキリスト教が経営している幼稚園出身なのだが、昭和39年当時そこでは「東京弁教育」を行っていた。その頃は「集団就職列車」というのがあって、中学を卒業すると若者はそれに乗って東京に就職する。東京でまじめに働いて出世していく人ももちろんいっぱいいるが、訛りをバカにされてヤケになって道を踏み外す者も多い。だから訛りをバカにされないように、幼児期から東京弁を身に着けさせようとしたのである。ちょっと怖い話である。

 で、訛りだが、20キロしか離れていない酒田と鶴岡でも微妙に言葉が違う。「このメロンうめろん?」(鶴岡弁で「このメロンおいしいでしょう?」)というのに対して酒田では「このメロンうめんでろん?」となる。「ん」と「で」が付くのだ。

 30キロ離れた旧温海町になると、「ふずらのふぁんずめままさふぁげでふぇ」ともう解読不可能なセンテンスが飛び交う。ここでは、「かきくけこ」が「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」に変化する。「鯨の缶詰をご飯にかけて食べなされ」が「ふずらのふぁんずめままさふぁげでふぇ」になるのだ。

 何年か前このあたりで、北朝鮮の木造船が漂着したことがあって、付近を歩いていた意味不明の言葉をしゃべる数名の男達が警察に捕まった。取り調べで、地元の漁師さん達だと判明したのだが、相手する方も地元出身者じゃなきゃ分からない訛りだと思う。
 ところでタイトルの「Pb」ってナマリね。お後がよろしいようで。

集団就職列車
集団就職(自分が幼稚園児の頃)

灯り

 3年ぶりの天神祭り、天満宮にお参りして鶴岡公園まで来るとすごい人出だった。少なかったけど縁日の屋台も出ていてみな長蛇の列。季節感も戻ってきてやれやれである。

 ところで、久しぶりに見る屋台が並んだ風景に少し違和感を覚えた。コロナ前もあったのかもしれないが、灯りが全部LEDになっている。どの屋台もみんな青白い昼白色。縁日の屋台はあの白熱電球の温かい色が懐かしさを醸し出してホワンとするのに…残念だと思うのは自分だけだろうか。

 自分が子供だった昭和30年代の終わり、当時新築だった自宅は蛍光灯だったが、祖母の家の2階には、松下幸之助が発明した二股ソケットに60ワットくらいの裸電球がくっついていた。汲み取り式のぼっとん便所の薄暗い20ワットは怖さを増幅させたし、当時は木造が主流だった電柱には傘付きの白熱電球の防犯灯が付いていて、下までは届かない灯りが闇をむしろ強調していた。

 子供だから暗いと幽霊が出そうで怖い。100ワットの明るさは心強いが、ワット数が下がるにつれ心細くなる。でも20ワットの電球にも良い所はあるのだ。光が目に入っても痛くなくて、フィラメントの輝く曲線をジッと観察できる。これがとっても美しいのである。

 ここまで書いていて、実は自分は白熱電球が好きなのだということに気付いた。

 庭のデッキの照明はもちろん白熱電球、しかも全部ではないが20ワットのものも使っている。酒を呑みながら目に入るフィラメントの輝きが良いのだ。ずいぶん前に、メーカーが白熱電球の製造を打ち切るという記事を読んで、その時まとめ買いをしていっぱいストックがある。意外に思われるかもしれないが、白熱電球は結構丈夫で長持ちする。屋外なので使用時間が短いとはいえ13年使ってダメになったものはまだない。少しストックし過ぎだったかなあと思いつつ、今宵も白熱電球の下で酒を呑むのであった。

天神祭り
二股ソケット
木の電柱と防犯灯
デッキの夜景

線状降水帯を行く

 東京でのイベントを機に、新橋で3年ぶりの某OB会が開かれるので出かけた。

 今年からバイクの高速割引制度が始まり、今回利用したのは「東北道・関越道3日間乗り放題 5,100円」というやつ。エリアは限定されるがエリア外でも他の割引と組み合わせて利用できるので「安い、安~い」のだ。

 当日目覚めて空を見ると「どんより」。テレビのニュースでは、東北地方に線状降水帯が発生して所々で川が氾濫したと言っている。飛行機は分からないが、いなほも上越新幹線も不通になってしまった。妻に「行けるところまで行ってダメだったら戻ってくる」と言って、予定どおり出発した。

 雨は降ったり止んだりだったが風が無くて、バイクのコンディションとしては悪くない。バイクで一番怖いのは風だ。その次が猛暑かな? 昔40℃の中京地方を走った時は、熱風でミイラになるかと思った。風のない夏の雨は涼しくていい。

 山形道から中央道に入り米沢を過ぎた辺りで高速を降ろされた。「福島に抜けるにはどう行けば?」と係員さんに尋ねると、「七ヶ宿を抜けるしかないかも」と言われた。雨だったのでナビに使うスマホは荷物の中にあって、米沢の郊外を彷徨うことになってしまった。

 農道らしき道を進んで行くと、道路が完全に水没して車が水中に浮かんでいて、村人数人で対策を話し合ってるみたいな所に出くわしてしまった。「ご苦労様です!」とその人々に声をかけられた。「え?オレ?」振り向いても自分以外に誰もいない。思わず「どうもです!」と言ってUターンしたが、あれは何だったんだろう?

 結局どこかわからぬ峠を越えてR13に出て、福島飯坂から東北道に入った。関東では雨は止んでいて、予定より30分遅れで青山のホテルにチェックイン。

 米沢郊外で頂いた村人の方々からの謎のご挨拶、後から考えて納得した。自分は「イエローコーン」というブランドのカッパを着ていたのだが、そのデザインは黄色地に赤い十字マークである。おそらく赤十字の救援隊に間違えられたのではないか。大きなスクーターの後ろに薬箱にも見える箱まで付いているし。

 土砂降りの新橋。大阪在住の昔の同僚に開口一番「なんで有地さんがここにいるんや? 鶴岡からの公共交通機関全部止まっとるで!」と言われた。この人物は鉄道マニアで強烈な雨男であった。

山形道から東北中央道へ
着ていたイエローコーンのレインウエア
フォルツァ MF15(ホンダ製250CC)
土砂降りの新橋

DIYでダイエット

 今から13年前、アウトドアならではの美味い酒を、自宅でも呑みたいと思って庭造りを始めた。庭の周りに木を植え、中央にウッドデッキと四阿(あずまや)、周囲は1段低いウッドデッキでテニスの壁打ちコート(近所迷惑でほとんど使わず)とバイク置き場を造った。

 中央のデッキには世界一シロアリに強いという「サイプレス」という木を使った。ずっしりと重く水に沈む木だ。もちろん値段も高いが「無塗装でも100年は持つ。もっと持つだろうが100年以上経過した建物がない」という話だった。ホントかな?

 下段のデッキは近所のムサシで売っている「国産ヒノキ」で作った。サイプレスほどではないがけっこう重量があって、杉なんかよりは断然強そうだった。

 そして13年が経った…。

 サイプレスは全く問題ない。だが国産ヒノキの方は土台が腐って、デッキ部分はヤセてしまってこれ以上は無理、改修することになってしまった。13年前の経験から、夏の作業はつらいので、春先から始めてGW中には終える計画で作業を開始した。

 13年前はズブの素人だった自分だが、今は当時の経験がある上に、自分の仕事のデキを検証しながらの作業になるのでとても勉強になる。ハウツー本にウソ書いてあることもまるっとみーんなお見通しでい!

 まず「コーススレッド(ねじくぎ)は、年月が経ってサビて抵抗が増えるから鉄製が最高で、高いステンレス製を使う必要はない」が大ウソ。鉄製のコーススレッドは中で腐って抜けず、解体は体力にものを言わせて破壊するしかない。ステンレス製だと13年経ってもスルスル抜けてもう一度使える。

 「デッキは1センチくらい隙間を開けて張る」もウソ。木はヤセてくるからそのうち隙間はできるし、最初のうちは雨が入り込まないので隙間なしの方が寿命も延びる。

 解体したサビ釘付きの腐った廃材は「大渕商店」という一番近い廃品屋さんに運ぶ。ここでは軽トラを500円で貸してくれるのでとても助かった。「これは何だもんだ?」と訊かれ「ウッドデッキの13年後の姿だ」と言ったら笑いが取れた。

 それにしてもサイプレスは凄い!全く硬さが変わっていない。実験的に土に埋めておいた木片を今回取り出してみたが、汚れているだけで全く変化していない。こんなこともわかって、今回は土台にはサイプレスを使って、デッキ(床)は国産ヒノキにした。もちろんコーススレッドは全部ステンレス製を使ったので、次回の改修はとても楽にできると思う。

 3月から作業を始めて5/5に完成!完成祝いにご近所とビアガーデン。

 そして何がうれしかったかというと、作業でカラダがしまって、履けなくなった昔のジーパンが5年ぶりに履けるようになったのだった。
 わ~い!

ウッドデッキ全景
ここは全部サイプレスで
改修部分
夜はこんな感じ

電車でお酒

 お医者さまに「…問題あるところはクスリで補えているのであとはダイエットだなあ…」と言われて久しい。何度もウォーキングを試みてはいるのだが、暑くなると止めてその後復活することはまずない。バーベルを買い込んで始めた筋トレも、3日は持ったが3か月目にいやになった。一時期続いた禁酒は結局元の木阿弥である。家内も自分も生まれつき根性と忍耐を持ち合わせていないのだ。ならばエサを与えてトレーニングしたら続くんじゃないかと知恵を使って、「電車でお酒」を始めた。
 まず家から5キロの大山駅まで歩く。電車に乗って鼠ヶ関へ。朝日屋が開く11時まで海辺を散歩。そして美味い寿司をつまみながらまずはビール…次もビール…そして酒…また酒…もうひとつ酒…ああ~クルマの運転が要らないということは何と素晴らしいことか。昼酒で気分はトロロンと最高!気持ちよい海風に吹かれつつ駅に戻り列車を待つ。大山駅から再び歩いてわが家へ。最後の5キロは少しつらかったけど、最高の休日の過ごし方となった。歩いた距離も軽く10キロを超えて、これはカラダにいいと思った。
 2回目は新庄へ。そして3回目は象潟へと「電車でお酒」シリーズは成長を見せるのであった。象潟は駅から海を経由して道の駅へ。岩牡蠣あり串焼きありピザありラーメン・蕎麦・うどん・韓国料理と何でもござれで肴に事欠くことはない。おススメのコースである。
 今シーズンも「電車でお酒」は続けるつもりだが、もう1つバリエーションを増やそうと思っている。それは「バスでお酒」だ。バスでどこに行くか。加茂水族館に行くのだ。レストラン沖海月で、てっさ(フグ刺身)を肴に一杯やりたい。てっさが何とワンコインなのだ。ここの料理長は今を時めく須田料理長で、本格的な料理はもちろん、クラゲラーメンも専門店並の絶品である。家内も自分も年間パスポート(わずか2,500円)を持っているので、時折食べに行っているのだが、昼酒はまだやっていない。今から楽しみである。
https://kamo-kurage.jp/restaurant/

鼠ヶ関へ
象潟へ
加茂水族館「沖海月」ふぐ料理
北前船のお膳

赤提灯探検隊

 「歓楽街から外れたところにひっそりと佇む赤提灯をしらみつぶしに調査しましょうよ」というメールを某大学教授からもらったのは、単身赴任を終えて戻って来た頃だった。もちろん直ぐにOKと返信した。どこから始めようかという話になって、「…自分が子供のころからあって今もやっている焼鳥屋がJAの裏にあってとても気になっていた…」という話をすると、じゃあそこからということになって二人で出かけた。

 当時40歳ちょい前の自分が5~6歳頃には既にやっていた店なので、相当のおじいさんかおばあさんがやっているだろうと思い「のんき」の暖簾をくぐった。豈図らんや店主は自分よりだいぶ若い生きの良い青年だった。カウンターだけで10人も入ればいっぱいの店で、その時も客が混んでいてなんとか座れた。

 酒の好きな方はご存じと思うが、鶴岡の焼鳥屋はブタのホルモンを焼いて出す店が多い、というか主流だ。土地によっては「焼きトン」というのが鶴岡では焼鳥、もちろん鳥を焼いて出す店もあるので少しややこしい。

 シオで注文したレバー・タン・ハツ・シロ…ガスで焼いているのだが、いいモノを使っていて焼き具合が絶妙で、柔らかくてとても美味い。熱燗を頼むと「ちろり」から注いでくれた。ちろりの燗は早いし触りが優しくて好きだ。いつだったか新宿西口の「思い出横丁」で熱燗を頼んだら、ストーブにかかってグラグラ煮立っているヤカンから注がれたことがあって、なんぼ呑んでも酔わなかった。熱燗はちろりに限る。

 教授に「こんなに美味いんだからオレここに通いますよ。調査これで終了にしましょうよ。」と言って探検隊は一晩で解散したのだった。

 今では考えられないが、当時の人々は夜遅くまで働いた。ノー残業デーはサービス残業デーと揶揄され、テレビでは「~24時間働けますか~」と唄っていた。年齢的にスタッフを預からせてもらった頃でもあって、厄介な外回りが夜9時頃に終わると「9時半のんき集合!」とみんなで行って、「マスター焼鳥メニューの端から全部焼いてくれ!」と言ってはつかの間のリフレッシュを楽しんだものだった。

 などと書いていたら焼鳥食べたくなってしまった。明日寄ってみっかな。

アポロ11号

 「Good Bye My Gozilla」は、うちのバンドでは珍しく速いサンバ系の曲である。ある昼下がり、未舗装の農道を歩いていてふと降りて来た曲で、歌詞のイメージも一緒に降りてきてくれたので、家に帰ってわりと直ぐに譜面ができた。曲が速いとどうしてもミスタッチが多くなるのでまだ良い録音ができなくて、7月のワンコインコンサートと1月の鶴岡ミーティングジャズコンで演奏したっきりである。

「~あの日からもう止めている煙なんて吐かないわ、さようなら愛しのゴジラ~」という中身を英語で唄う禁煙の曲として完成した。

 自分がタバコを止めたのは平成151221日だったから、あと少しで20年になるんだなあ。親父のハイライトをクスねて吸った日以来ずっとハイライト一筋で、軽いタバコは吸った気がしなくてダメだった。その日、長期にわたる懸案事項がやっと片付いて、遅れて出席した忘年会から禁煙して今まで続いている。自分としては記念に何かやりたい心境で、「そうだ!記念にタバコを止めよう」と決めたのであった。

 実は長年町内会の役員をやっていて、初めてお仕えした町内会長さんは全くお酒を飲まない方だった。月一の役員会が終わるとそのまま宴会になるのだが、その会長さんは毎回最後までジュースで参加されていた。歳からしてもドクターストップがあっておかしくないし、元々酒が苦手のタイプかもと気にも留めていなかったのだが、ある時「会長さんはお酒は飲まないのですか?」と訊いてしまった。すると「アポロ11号以来止めている」とのお答え。

 何の事かわからず詳しく聞いてみると、1969721日、アポロ11号が月に着陸して、アームストロングさんが月面に降り立った。感動した。人類はなんてすばらしいんだ!このとき自分も記念に何か大きなことをやろうと決心した。それで、その時まで毎晩呑んでいた一升酒をプツリと絶ったのだ…という事だった。

 「すごいなあ」と感心した。自分にはとても出来そうにないけど、せめてタバコだったらできるかもしれない。それが平成151221日へ繋がった訳である。

 アポロ11号が月に着陸したのに感動して止めた断酒に感動してタバコ止めて約20年経ってできた禁煙の唄が「Good Bye My Gozilla」である。

アポロ11号発射!
月着陸船
ムーンウォーク
凱旋パレード

ディズニーランド

 それはとある冬のこと。明け方から熱が出て起きられず、それから3日間40℃近い高熱が続いて、おでこの熱ピタシートを張り替えながら、うつらうつらとベッドで過ごしていた。

 で、夢を見た。子供の頃の夢だ。昔住んでいた家の近所で自分はセミ捕りをしている。でも暑くて暑くてそして疲れて…たまらず寝転がってしまった。するとアタマが道路の舗装に触れた。「あ~道路が冷たくて気持ちいい!」という妙にリアルな夢だった。

 これが正夢となった。国から開発費をもらって2年かかって「クールロードシステム」というものを創った。ヒートポンプを使って道路やビルなどの構造体の温度を調節するというもので、特許の名称はそのまんま「構造体温度調節システム」という。

 真夏に道路を冷やす社会実験をやったこともあって、面白い技術だと全国各地のメディアで取り上げられ、あちこちから議員さんたちが視察に来て忙しかった。複数の学会でも発表させてもらって「ヒートアイランドに対抗できる唯一の技術」との評価もいただいて、打ち上げで開発スタッフみんなで呑んだ酒は旨かった。

 舗装を冷やして日陰を造ると、屋外にあっても冷房空間が出来てしまう。炎天下の中で長時間並んでいるような場所にはもってこいのシステムである。誰かが言った「ディズニーランド…」。そうだ、ディズニーランドならきっと欲しがる。早速売り込みに行った。

 17万人(当時)の入園者数を誇るディズニーランド、夏はさぞかし熱中症患者が多発しているだろうと思ったのだが、意外なことにほとんど発生していないそうだ。思えばディズニーランドに行く人々はワクワクでノリノリでそもそも健康的だ。その上ディズニーランドには熱中症対策の必殺技があったのだ。気温が上がってくるとディズニーランドでは、実はいっぱいいるミッキーとミニーに指令が下る。「水鉄砲でお客さん達を撃ちまくれ!」

 辻々にミッキーとミニーが現れてお客さんは水をはじかれる。こんなにうれしいことはない。熱中症になっているヒマなどないのだ。同じことをヘンな親父がやったら警察に捕まるが…

 「一晩で工事が終わるのだったらやってくださいよ」と言われてすごすごと引き返してきたのであった。

 あれ以来、手を振っているミッキーとミニーを見ると「いりましぇーん!」と言っているよう見える。

いりましぇーん!
社会実験中のクールロードシステム
開発中のクールロードシステム

駅伝

 20年くらいずっと、2月の第1土曜日は横浜で過ごしていた。駅伝大会に出場するためだ。陸上やサッカーのプロたちの舞台である「日産スタジアム」。ここで毎年2月第1土曜日に「下水道職員健康駅伝大会」が開催されるのだ。

 この駅伝大会、元々は神奈川県内の下水道職員の親睦大会だったのだが、日産スタジアムを下水道局が管理するようになって日産スタジアムを使ったとたん、全国からチームが殺到して近年では400チームが参加する一大イベントとなった。古くは神奈川県と横浜市の下水道局が協力して自力で運営しており、下水道局長の開会の挨拶は「…うちの職員は年が明けると全く仕事をしない!こんな大会は異常だ!」と毎年ウケていた。出場チーム同士のプレゼント交換もあって、素朴な温かみのあった時代が懐かしい。交換するプレゼントに、鶴岡で撮られた藤沢周平映画「花のあと」のチケットを持って行った時には、業界紙がコラムで取り上げてくれたことがあった。

 10年くらい前から、プロのDJが音楽とマイクで進行を仕切る都会的な大会に様変わりして、プレゼント交換もなくなりカッコイイけどドライなイベントになってしまった。

 それでもである。鉛色の空を抜け出し、青空と太陽と富士山に見守られて日産スタジアムを走る気持ちよさ…それに、レースが終われば、中華街に野毛に、これまたハシゴするごとにトロロンと気持ちがリフレッシュ。あと2か月の辛抱で春が来るという、自分にとっては冬の命の洗濯であった。

 下水道職員だけでなくミス日本も走る。藤原紀香さんがグランプリとって有名なミス日本だが、グランプリの他に6部門あって、序列2位が「水の天使」次が「緑の女神」「ミス着物」「ミス海の日」「ミススポーツ」そして「準ミス」。この「水の天使」という部門は下水道業界が業界のPRのために創設に尽力した部門で、歴代の水の天使がチームを組んで花を添えてくれる。

 その体形で走れるの?と思われるかもしれないが、今は「トド」の名をほしいままにしている自分であるが、少し前までは「タヌキ」と呼ばれ、第6回さくらんぼマラソンでは2時間12分で641位、フルマラソンの一流選手並みの時間で半分走れたのであった。

 去年に続き2年連続の中止が決まり残念至極だが、来年に備えてダイエットしよっと。

400人が一斉にスタート
ミス日本 浦底理沙さん 鶴岡大好きな鹿児島娘
レース終わってこれから野毛へ

心霊スポット

 フォルクスワーゲンのビートルが生産終了してしばらくたった頃、市内のクルマ屋さんには中古がまだ何台か飾られていて、「欲しい…かな?」という感覚があった。その頃の自分はクルマを持っておらず、週末のキャットウォーク(秋田)での演奏も、往復250キロをヨンヒャクで通っていて、冬になる前にクルマを買わなくちゃという事情があった。「どうしてもビートルに乗りたい!」というのでは全くないが、カタチが変わっているし、宮様も乗っているし、値段もこなれているし…くらいの感覚。

 休日にビートルが飾ってあるダイハツの店に行って「ビートル欲しいんですけど…」と言いかけて、ショールームに置かれた白い軽自動車に見とれてしまった。何だこの軽自動車?エラくかっこいい。真っ白でエアロパーツに覆われていて、赤いバツが2つ描かれている。店員さんが「新発売のミラターボTRダブルエックスですよ…」と解説してくれた。なんでも550cc 3気筒エンジンにターボを装着し、スポーツカー並みの加速をするそうだ。「ヘッドライトはヨーロッパで主流になりつつあるイエローバルブが標準装備されていて、霧でも視界がききますよ…」で、その場で契約してしまった。

 クルマが来ると、キャットウォークにはそれで通うようになった。ある夜の事、演奏が終わって鶴岡への帰り道、急にお腹がギュルギュル言い出した。もともとアブラ系に弱いお腹で、天下一品のこってりを口にしたときは一口でトイレ直行だった。その夜の何が原因だったかわからないが、本庄を超えた辺りから結構つらくなってきた。

 真夜中である。しかも1987年当時、鶴岡-秋田間のR7沿線にはコンビニも道の駅もない。つまりトイレ事情が悪いのに、あったとしても暗くて見つけられない。

 「困った…そうだ!ハンドルに跨って下にゴミ箱を置いたらできるかも…タッパが足りないか…」などと妄想が走馬灯のようにアタマの中を巡る。「…家までは持たない…どこかにトイレはなかったか…」「そうだ!三崎公園にあるよな…でも…」三崎公園は戊辰戦争の激戦地が公園になった所で、武者の幽霊や身投げした人の幽霊が出る恐ろしい心霊スポットとして有名だ。自分は何を隠そうこの年になっても幽霊は怖い。若かりし頃はなおさらである。そうこうしているうちに象潟市街を抜け、飛ばし気味のクルマは三崎公園に近づいて行く。

 つらさは恐怖心より断然強いということがこの時よくわかった。自分の意思とは無関係のように自分は何の迷いもなく三崎公園の入り口に入った。そして、駐車場の中央にあるトイレの入り口にクルマを垂直に付けた。トイレの中はヘッドライトに照らされて黄色に輝き、幽霊には全く似合わない空間が出来上がった。賑やかな真っ黄色なトイレでゆっくりと用を足し、ホッとした思いで再び家路についた。

 ネットで調べると、山形秋田両県にまたがる三崎公園は、山形県ではランキング第1位、秋田県では第3位の心霊スポットだそうである。
当時のビートル
ミラターボ ホントに速かった

 「吉田類の酒場放浪記」を毎週楽しみに視ていた時期があった。
 あるとき類さんが、柴又の「春」という居酒屋で呑んでいるのを見て、今度上京したらここに行ってみようと思った。

 柴又は、その近くで生まれ育った友人がいて何度か訪れたことがあった。寅さんでおなじみの商店街のどん突きに帝釈天があって、お参りを済ませて裏に抜けると江戸川の河岸に出る。ここに東京都交通局で運行している「矢切の渡し」があって、300円くらいで向こう岸に渡してくれる。
 「~連れて逃げてよ~」と細川たかしの唄でも有名だが「矢切の渡し」が世に広まったのは、明治39年に発表された「野菊の墓」の一節に描かれてのことだそうだ。

 舟は、桟橋への発着だけはエンジンを使うが、基本的に櫓をこいで進むので情緒たっぷり。いつもとは違った目線で東京を眺めることができる。対岸は千葉県松戸市だが、ものの見事に何もない一面の畑で、だからやる事もなく乗ってきた舟で戻るしかない。でも東京でありながら、ゆったりとのどかに流れる時間と風情に浸るのは、田舎者にとっても最高のリフレッシュとなる。

 「春」は柴又の駅を降りた広場の左手にある。自分が初めて訪れた時は、美しいママさんと美人の娘さんと、かわいい孫娘さんの3人で営業していた。まだ大分陽が高かったから、自分がその日一番の客かもしれなかった。幼稚園児かなと思われるお孫さんが、トコトコとお通しを持ってきてくれて、本当にかわいらしかった。
 「吉田類の酒場放浪記視て来たんですよ」とママさんに話しかけると、「…テレビでは15分ですけど撮影は4時間もかかったんですよ…」と撮影が大変だった話をしてくれた。「…類さん最後は酔っぱらってベロベロでねえ…」「…吉田類さんってお酒に弱くて食べ方もきれいじゃなくて、どうしてこんな人が酒場のレポートをやるのだろうって思ってしまうんですけど…」でもそこが庶民目線で視聴者に愛されるのだとママさん。なるほど鋭いと思った。自分としてはそれに加え、最後にひねる俳句がプロだなあと感じる。

 寅さんの話になった。渥美さんは柴又でロケがあると、必ず「春」に寄ってひと時を過ごしたそうだ。「…今お客さん(自分)が座っている席が渥美さんの定席で、あの方は飲まない人でしたから、そこでお茶を飲みながら皆さんを眺めていたんです…」「…そのまなざしが優しげで…」。さいはての宿で一人熱燗を呑む姿が印象的だけど、それは映画の中の寅さんなんだ。映画の外の渥美さんは物静かな方だったようである。

 その後「春」には何度か行ってうまい酒を呑ませてもらっていたが、ここ2年コロナで行けていない。風のうわさでリニューアルしたとも聞いている。年が明けたら春を呼びにまた「春」に行ってみようかと思っている。

矢切の渡し
寅さんとさくらの銅像越しの春
2月なんで寒いけど 外テーブルの昼酒がまたオツ
ママさんと娘さん

ノーベル賞

 自分が役員を務める某団体の名刺交換会に、その年(H26)ノーベル物理学賞を受賞された名古屋大学の天野浩先生が来るという情報があって、後輩と二人で自分のクルマで出かけた。ノーベル賞受賞公演の後に宴会があり、それには天野先生も参加されるらしい。うまくすると世界のスターと化している天野先生とのツーショットが撮れるかもしれない。そう思って東京は学士会館に向かった。

 クルマは平成元年に新車で買ったハイラックスというトヨタのピックアップトラックで、あのバックツーザヒューチャーで主人公が乗ってた…って言えばわかるだろうか。2800ccのディーゼルエンジンでスピードは出ないがどんな道でも走るタフなクルマだった。が、行く時から少しおかしかった。120キロくらいで巡行できるはずなのに「なんぼアクセル踏んでも90キロしか出ねえ」のだ。東北道の途中で覆面に捕まっているクルマがうらやましく思えた。「捕まるほどスピードが出ていいじゃねえか」

 都内にはディーゼル規制で入れないので、草加駅前のホテルに駐めて、ここから電車で神保町へ。講演会は超満員、天野先生の講演は、ご自分の技術の話はわずかで、ノーベル賞とそれを担うスウェーデン王室の話が主体の大変楽しいお話だった。少し紹介すると「ノーベル賞には序列があって、最もえらいのは物理学賞、ついで化学賞。医学賞なんかはずっとはじの席で、平和賞などは別の日にノルウェーで授賞式が行われ、現地ではノーベル賞とは思われていない」「自分は物理学賞なので、隣は王妃さまであったにもかかわらず気を失ってしまった。受賞以来の取材の嵐、時差などで寝る間のない生活が続き肝心なところで睡魔に勝てなかった」そうである。

 宴会は立食で、自分らはひたすら前の席を目指して突進した。大臣や国会議員や経済同友会のお偉いさん達に混ざってビールを飲みながら天野先生の登場を待つ。この団体は日本技術士会といって年齢や職業での序列を撤廃し、どうしても順番が必要なときは五十音を使うことになっている。だから自分さえ気にしなければ文部科学大臣の隣に陣取ることもできるのだ。

 天野先生が来た。すかさず名刺を手に先生に駆け寄る。同じことを考える奴はいっぱいいて、すぐに列ができたけれど何とか10位くらいに並べた。お疲れのところを、東北の片田舎から出てきた田舎技術者二人にもにこやかに応対していただき本当にありがたかった。いつか自分もノーベル賞目指して頑張るぞー!とは毛ほども思わなかったが…

 さて帰路である。あいかわらずスピードが出ない。山形道に入ると起伏が激しくなる。上り坂になると更にスピードが落ちる、後ろを振り向いた後輩が言った。「すごい煙でマンガのポンコツ車みたい…」それでも後続にご迷惑をかけながらひたすらアクセルを踏む。月山を超えて再び高速に入る。2本目のトンネルでついにエンジンが死んだ…鳴り響く警報、反応しないエンジン。「こんなところで止まったら後ろから掘られて本当に死ぬぞ!」でも天は見捨てなかった。下り坂なのでなんとか前進はしている。避難帯に入って一息。「でもここからどうやって帰ろう?」こうなるともうやることはただ一つ。「神様!今まで悪い人間でごめんなさい。反省いたしますからなんとかエンジン復活を!」奇跡的にエンジンがかかって、そこから修理屋さんまでエンジンは止まらなかった。

天野先生と私と後輩の玉津さん

作曲のやり方

 ジャズはコード進行やメロディーに合わせて即興で演奏する音楽なので、言ってみれば演奏ごとに作曲しているようなものだ。だからこれまで作曲しようと思うことはあまりなく、40年以上バンドをやっていてオリジナル曲は2~3曲と少なかった。ところが一昨年あたりからメロディーが降りて来るようになって、ここ2年で20曲を超えて作曲してしまった。この「メロディーが降りて来る」という感覚だが、同様に言う作曲者は結構いるらしいのだが、先日某ライブでご一緒した作曲家でもあるエレベ氏は何度も「信じられない」を繰り返していらしたので、自分なりに少し掘り下げてみようと思う。

 この「メロディーが降りて来る」を別の言葉で言い表すとしたら「湧いてくる」だろうか。ふとした瞬間にアタマの中にメロディーが現れるのである。在宅中ならすぐにパソコンで譜面にするのだが、外出中は困ったことになる。筆記用具を持っていれば手帳に5線を引いてメモることもあるのだが、何も持たないときはどうすることもできず消えてしまう。

 できた曲には想い入れがない。自分が作った曲ではない感覚なのでほぼ無関心で、ただバンドで使えるかどうかだけが気になる。自分では、神様が雲の上から譜面を撒いていて、自分がたまたまキャッチしたイメージなのである。

 また、降りて来るメロディーには特徴があって、それは「カドがない」のだ。ごく自然なメロディーで無理した痕がない。だから他人の曲でも「これは降りてきた曲だな」ってわかることがある。例えば荒井由実さんの初期の曲には多いなあと感じる。(違っていたらごめんなさい)

 メロディーは降りて来るからいいのだが作詞はつらい。譜面にしたメロディーを前に、これでどういう情景や物語を創ったらいいのかじっと考える。

 「家を出てどこかに出かける。しばらく歩くと川があって橋がかかっている。そうだ、この橋を渡ると幸せが待っている…そんな物語を歌詞にしよう…」という風に妄想して歌詞を創っている。自分の場合、歌詞は情景の描写までにして止め、聴いてくださる方がメロディーと歌詞から自由な発想が得られるように心がけていて、これは自分の曲の特徴だと思っている。

唎き酒セット

 初めて日本酒を飲んだのは忘れもしない小学5年の時だ。家の増築が終わった大工さん達の宴の手伝いで、底に酒の残った一升瓶を運んでいて、ラッパで一気に飲んだ。「う…美味い!」

 こうした経験が根底にあって、今と違って未成年の飲酒にそれほどうるさく言わなかった時代背景があって、その上他人の何倍も修行して大酒呑みが完成した訳だが、失敗も数々あった。

 アタマはまともでも立てないとか、突然タタミが左前方から襲ってきたとか、ぶつかって来た相手が何も言わないので説教したら電柱だったとか、ハシゴしてカバン忘れたけど店がわからず取りにいけないとか…。こうして列挙すると自分はとんでもない人間のように思われるかもしれないが、これは40年ほどの酒呑み人生の中でそれぞれ1度あったくらいの出来事である。

 で、1つだけ特技がある。近年わりとどこの居酒屋でもやっている「唎き酒セット」で百発百中なのだ。唎酒師取ったらってよく言われるが、そんなことは毛ほども考えたことはなく、醸造方法やら地域による味の違いなどの知識は全く持ち合わせていない。でも当たるのはなぜか?それは苦みを感じる舌の地点が酒ごとに違うからである。

 日本酒は甘味と苦味が同居した液体だが、甘味は口中全体で感じるのに比べ、苦味は舌のある1点でより強く感じる。酒によってそれが明確に異なるのだ。3種類の酒を出されて、それぞれ苦みを感じる地点を覚えると、次に出された酒が先に飲んだどの酒か簡単にわかる。

 知り合いの唎酒師にこの話をしたら「唎酒師の初級は超えてるね」と言われた。エッヘン。

チバラギ

 19984月、仕事でつくば市に移住した。単身赴任である。

 つくば市は他にあまりない特殊な街で、昭和40年代に計画されてゼロから造られた人工の学園都市である。東西南北を6車線の道路で区切り、周囲に研究機関群、中に大学や住宅地、商業地を配置し、歩行者には全く車の通らない動線が確保されている。住んでみるととても機能的で便利ではある。しかし、コンクリートと芝生とケヤキの街はきれいすぎて面白みに欠け、雑然とした街並みも、それはそれでいいんだなあと思うようになった。特に、飲み屋街みたいなのがないと人間は元気がなくなるということがよく分かった。

 こんなにきれいな街なのに、毎週土曜の夜11時頃になると、暴走族が大通りをものすごい騒音で駆け回る。ここがチバラギであることを思い出す土曜の夜だった。

 鶴岡に戻ってからも年に数回はつくばに行っているのだが、仕事絡みで行くので土曜日に泊まることはなかった。先日プライベートで土曜日に旧友と飲んで、大通りの上空の歩行者道を宿に向かって歩いていると来たー!!思わず走って歩道橋に出て上から見ると、マフラーを外したようなガラの悪いバイクが50台くらい騒音とともに蛇行している。で、信号が赤になって一斉に止まった。「あれ?この人たち道交法守るんだ」と感心した。

 そしてふと思った。自分が居た時分からでも23年、この人たちはもっと前から毎週これをやっているんだろう。するとおそらく30年以上もやっていて、親の後を引き継いでやっていたり、親子2代で参加していたり、ひょっとすると少子化で担い手不足で悩んでいたりもしているのではないだろうか。うるさいけどすぐに通り過ぎるから被害はないし信号だって守る。ダンジリに比べれば全く安全だ。これはもう「チバラギ」という伝統文化と言ってもいいんじゃないだろうか。

 暴走族(?)の皆さんが信号守っているのを見て少しだけ親近感を覚えた瞬間だった。

つくば研究学園都市
研究学園都市を象徴するH2ロケット
市内に配置される歩行者道
暴走族が走る大通りと歩行者用上空通路

蕎麦のはなし

 むかし宇都宮に行った時に食事に案内してくれた方が「何を食べても美味しい鶴岡から来られているのでどこに案内しようか悩んだんですよ」と言う。「餃子があるじゃないですか?」と言うと、「あれは有名なだけで美味いもんじゃないですよ。ただ、蕎麦だけは結構いけるといわれていて…」と蕎麦屋に連れて行ってくれた。

 たしかに美味しい蕎麦だなあとは思ったのだが、当時の自分は蕎麦の良し悪しというのが全く分からずに、「細いのもあれば太いのもあるんだな」とか「極太は食えたもんじゃない」とか「ずいぶん上あごにひっつくなあ」とかいい加減な味音痴だった。

 そこに救世主が現れる。とある分野の学芸員の資格を持つ「マカメ先生」という方が自分を蕎麦の弟子にしてくれた。先生曰く「蕎麦には2つの文化がある。すなわち、やせてコメの育たない地域でせめて蕎麦でもとダンゴにして食べた田舎蕎麦の文化。そして江戸の二八蕎麦が参勤交代によって全国に広まったまち蕎麦の文化。この2つの文化を混同して評価してはいかんのじゃ。」目からウロコが落ちた。

 山奥に多い極太のぼそぼそした蕎麦は「田舎蕎麦文化」として味わえば、これはまたいけるのかもしれない。で、先生に尋ねた。「どういう蕎麦が美味い蕎麦で、どういうんだと不味いんでしょうか?」先生は言った「それは私が決めることではなくあなた自身が決めることだ」でもどうやって?「まず自分が美味いと思った蕎麦屋に通いなさい。そこにしばらく通ったら別の店に行ってみなさい。すると食べなれた蕎麦に対して別の店が上か下かがわかるようになる。」なるほど。ツウというのはスタンダードを持つことが基本なんだと納得した。

 考えてみればジャズも一緒だと思った。いろんなジャズピアノを聴いても最初の頃は何のどこがいいのかさっぱりわからなかったが、バドパウエルを聴き込んで他のピアノを聴くと、「この人はバドを土台にしているとか、届いてないとか、超えてる」って評価できるようになる。

 山形の庄司屋にしばらく通い、それから山形蕎麦街道をあちこち巡った。庄司屋の蕎麦を基準に、蕎麦の香りは?つゆの味は?のどごしは?そして値段は?といった具合に評価して味覚を鍛えたものだった。最近の庄内の蕎麦は美味しくなったが、当時は内陸の人々が「庄内の蕎麦はなー」という気持ちが理解できるようになったっけ。

まち蕎麦のイメージ
田舎蕎麦のイメージ
蕎麦がき

ワンコインコンサート

 73日の荘銀タクトワンコインコンサートには、大勢のお客様においでいただき、幸せな気分で演奏させていただきました。ありがとうございました。自分のバンド単独のライブだと、200人くらいまでの観客数は経験あるんですが、300人を超えたのは初めてです。(ちなみに343人だったそうです)

 大きな会場での演奏はやはり練習にも気合が入ります。そして開催日が近づいてくると見た目も気になりだします。早苗ちゃんはシェイプアップにランニング始めたと言ってましたが、自分のお腹は簡単にへっこむものではないので、せめて服でもと思いGUに行ってきました。Bass奥泉も同じことを考えたらしくGUに行って、これまた自分と同じ黒い服を買ってしまったりするんですね。社長に「奥ちゃんの方が似合うのであんた別のを着なさい」と言われ、自分は去年買った白い服で出演しました。

 舞台の仕掛けは当日のリハーサルで初めて見ました。タクトには「ステージアンサンブル」というプロの舞台・音響さんが入っていて、1曲ごとに舞台を演出していただきました。こちらでも演出の案は考えていたのですが、アイディアが古すぎたようで、すぐにプロにお任せするのが一番ということがわかりました。Moonlit Balladでは大きな月が出たり、クラゲの動画が投影されたり、我々では考えつかない演出です。音響は細かな音まですべて拾っていただき、大きなスピーカーから余すことなく出すという感動モノのPAでした。

 CDもたくさんお買い上げいただいてありがとうございました。オリジナルを気に入って頂けたものと思うととてもうれしいです。

 Bistro G’s Song は、名曲に多いという出だし「ソドレミ」を使って作りました。同じ出だしの名曲はいっぱいあります。例えば「You Are My Sunshine」「この道はいつか来た道」「Danny Boy」‥など。世界で売れる名曲にしたいと思って、この曲だけは設計して作曲しました。

 他の曲は、特に作ろうと思って作った曲ではなく、空から降りて来るメロディーを書き留めただけなんです。前は気づかなかった空から降りて来るメロディー。今は気づくようになったのでまだ多くの在庫があるし増えてもいます。練習終えた曲から出していきますので、BAR ChiC Live などにおいでいただけるとうれしいです。

加茂水族館とのコラボ
Bistro G's Songを語る
クラゲ傘のCM
一番ウケ「合格!」

昔の日本酒

 寝しなに時代小説を読むのが好きだ。

 郷土の作家藤沢周平も味わい深いが、酒でいうところの甘口な感じがして、辛口な池波正太郎を読む日の方が多い。

 読んでいると酒のシーンがしばしばあって、「…歳でもう5合くらいしか呑めねえ…」などというセリフが頻繁に出てくる。なにを隠そう、自分も若いころは酒豪と言われ、晩酌で一升瓶を空にしたことは何度もあるが、それはせいぜい月に1度か2度、5合呑むのはそれなりにしんどいのは分かるし、歳で晩酌やめた今では5合なんか呑めない。池波さん何でそんなに酒豪ばかりを出すんだろう?と不思議に思い調べてみた。

 そしたらなんと、江戸時代の日本酒はアルコール度数が5%だった。現代の酒の半分以下、ビールを飲んでるようなものだったんですねえ。だから5合で缶ビール3本に満たない。これなら歳でも飲めるわいと思った次第です。

 なんでそんなにアルコール度数が低いか。江戸の人々が呑む酒は灘で作られ樽廻船で運ばれて来る。灘で作って樽詰めされた直後は今の酒と同じ14%くらいあるのだが、江戸の問屋に着くと水増しされて量が増えアルコール度数は減る。さらに小売店でも水増しされて最終的に5%くらいになるんだって。昔の酒は、精米技術が進んでいなくて、コメの外側の雑味成分をたっぷり含んだまま発酵させた酒で、そのままだと甘くて飲めないのだそうです。

 鬼の平蔵が変装して市中見回りの途中で蕎麦屋に入り酒を頼む。酔うほどの酒ではなかったんだ。今だったら問題になるけど、クルマの無い時代だったら普通だったんだろうな。

 書いてて急に思い出した。中学時代仲良くしていた同級生が、成人した直後くらいに遊びに来てくれて一緒に酒を呑みだして、一升瓶2本が空になって「もう家に酒はない」と言うと「今度はとことん呑もうぜ」と言って自転車で帰って行ったことがあったけど、あいつあの後無事だったんだろうか。

ジェットスター

 首都圏への移動にはジェットスターをよく使っていた。年会費を払って会員になるとだいたい片道3,500円で成田まで運んでくれる。いなほで新潟まで行くのに4,000円かかるのに成田まで3,500円ですよ。なんとお得なことか。

 何度か使ううちに成田空港の構造を知るようになった。成田は3つのターミナルビルで構成されている。まず国際線が専門の第1ターミナル、ここはガラスでできた日本の玄関にふさわしい堂々とした建築物である。次に国内線主体の第2ターミナル。鉄筋コンクリート造のそれなりに立派な建築物。そして第3ターミナル。ここは格安便専門で上屋はトタンでできた箱。「機能優先でおカネはかけておりまへん」を物語るデザインだ。中は薄暗くて、食事するにも「花丸うどん」などワンコインのフードコートのみ。自分のような貧乏人にはありがたいが、どこか惨めな気持ちも伴うし、「ここまで差をつけるの?」って思ってしまう。

 一度つくばからリムジンバスに乗ったら、到着が第3、第2、第1の順番だった。「いやだなあ、第3ターミナルで降りたら貧乏人だってばれるなあ」で、第3ターミナルで降りたのは自分一人だけだった。「皆さん外国行くのね、停めちゃってすんまへん」と思ったが安さには代えられない。

 4時頃庄内空港を飛び立つと5時過ぎに第3ターミナルに降りる。これからが大変、駅のある第2ターミナルまで、トタンの屋根だけかかっているコンクリのタタキの連絡通路を1キロ弱歩かなくてはならない。同じ連絡通路でも、ビルの中をしかも動く歩道で移動できる羽田空港とはえらい違いだ。だから電車に乗れるのは6時過ぎになる。でも錦糸町までは1時間ほどで電車賃は千円くらいで行ける。

 なぜ錦糸町か。ここにはジャズセッション専門のライブハウス「J-Flow」があるのだ。ワンドリンク付き2,000円くらいで、毎日違うプロミュージシャン達がホストバンドとなって一緒に演奏してくれる。楽器、譜面もすべて店に揃っており、グランドピアノ、コントラバスはもちろん、サックスやラッパもある。例えばサックスの人ならマウスピースだけ持参すればよい。出張の行き帰りにチョイと寄ってセッション。そんな感じだ。

 何度通っただろう?お店にも名前を覚えてもらっていたのにコロナで1年半くらい行けてない。早くワクチン打って演奏しに行きたいなあと思うこの頃。それとジェットスターにも是非庄内空港に戻ってきてもらいたいものだ。署名運動やろうかな。
J-Flow演奏前
ホストバンドの守谷美由貴トリオ
守谷さんって本田珠也の奥さんだって後から知った
ドラムが秋田出身のモンキー小林さん

くいだおれ

 2004年に仕事で大阪に行ったときの事。

 大阪在住の友人に「5人で行くので打ち上げのセッティングを頼む。くいだおれに予約を入れてほしい。」と連絡した。すると「あんな高いとこにせんともっと安くて美味い店にしとき」との返事、しかし大阪と言えば「くいだおれ」、賄い料もこちらと変わらず有名な割に全然高くない。無理を押して予約してもらった。

 で当日。「わー本物だあ!」と感動しつつくいだおれ人形の前を通って店内に入る。「歓迎、有地様ご一行様」の看板を尻目に玄関へ。座敷に座るとすぐに店主が挨拶に現れて言った。「有地様皆様、本日は当店をご利用いただき誠にありがとうございます。本日は皆様を、山形は庄内のお酒とお料理で御もてなしさせていただきます…」
「なに?」

 大阪で食べた庄内の酒と料理はあまり美味くはなかったが、庄内フェアーをやってくれていた「くいだおれ」さんには地元民として感謝感激で、今は廃業してしまったのが残念でならない。庄内の酒で酔っ払い、トンボリでグリコになったりカニになったりして楽しかった。

 今年8月、インテックス大阪で開催される下水道展からバンド演奏(もちろんBistro G’s Songがあってのこと)のオファーがあって楽しみにしているのだが、果たして行けるだろうか?

くいだおれ
カニになってしまったヨッパライ

本日開店

 20年前のこと。盛岡での仕事が終わり、所属の異なるスタッフ4人で打ち上げようと駅前の盛り場をうろついていた。誰も盛岡には詳しくなくて安くてうまい店がわからない。するとハッピを着たお姉さんが「居酒屋本日開店!本日開店!」と叫びながらクーポンを配っている。「安いの?」と尋ねると「安くて美味しいのが自慢です。7時まで生ビール半額ですよ!」というのでそこで打ち上げることにして暖簾をくぐった。驚いたことに店の名前が「居酒屋本日開店」だった。
 本当に安くてうまかったから騙されたわけではないけれど、毎日「居酒屋本日開店!」って客寄せができるんだなあ、どことなく毎日1つ売れる現品限りと似ている感じがした。
 打ち上げは「今までどんな失敗をやらかしたか自慢し会って、一番すごい失敗の経験者にみんなで奢る」というゲームで盛り上げることにした。ジャンケンで順番を決め、とあるメーカーの営業のKさんがトップバッターになった。彼は「自分の失敗をしゃべったら誰もしゃべれなくなりますよ。いいですか?」と前置きして話し出した。「自分は今の会社に入る前、住宅メーカーで営業をしていたんですが、他人の土地に顧客の家を建ててしまったことがあります…」
 あの頃も忙しかったけどずいぶん飲んだなあと思い出します。10年くらい経ってから盛岡に行ったときに「居酒屋本日開店」はあって、懐かしくてそこで飲んだけど今もあるかな?

現品限り

 実は「現品限り」に弱い。自分だけでなく家内も弱い。
 「もうじきカネが入るから、ちょっと見るだけ行ってみようか?」と言って家具屋さんなどに出かける。するとかなり高い確率で、安そうで見栄えの良い「現品限り」に出会ってしまう。運んできた運送屋さん曰く。「この商品は毎日1つ出るんですよ」。この時から「安物買いの銭失い」を座右の銘にしようと決めた。
 先日、某ジャーナルが企画したWEB配信の鼎談に出させてもらった時に、司会役の先生から座右の銘をと言われて困った。「安物買いの銭失い」と言って笑ってもらえそうな雰囲気ではないし。幸い先行した方の発言が長引き、私は答えなくてよくなって助かったのだが、その話が面白かった。
 その方の座右の銘「漂えど沈まず」。(「たゆたえど沈まず」ともいうらしい)
 なんと良い響きの言葉だろう。聞いただけで哲学だと思ってしまう。自分だってそうだった。右往左往したり、沈没しそうになったり、でもなんとか沈まずに今がある…。フランスの格言とかパリの標語とか後から教えていただいたが、良い話が聞けて良かった。
 そして今、クラゲの唄を作っていて、この「漂えど沈まず」を歌詞に織り込もうとしている。だってピッタリでしょクラゲに。

お問い合わせ

鶴岡のジャズピアノトリオ「有地トリオ」と、一緒に活動しているボーカリスト春山早苗のホームページです。
コンサート、ライブ情報や、オリジナル作品の紹介などをお楽しみください。

携帯用QRコード

QRコード
携帯のバーコードリーダーでQRコードを読み取ることで、携帯版ホームページへアクセスできます。
有地トリオ with 春山早苗

◆コミュニティーa(所属事務所)
〒997-0047
鶴岡市大塚町34-33

◆ご連絡先(電子メール)
 arichi@e.jan.ne.jp
PAGE TOP