ベーゼンドルファー:その4
リハーサル中に1度シンバルがピアノに当たりそうになり、ドラムスがベーゼンドルファーの社員さんに謝ったら、にこやかに「いいんですよ。傷が付いたら買っていただきますから」と返され、その時社員さんの目は笑ってなかったなんていうのも今になれば懐かしい思い出です。
三越の部長さんたちもコンサートの成功をとても喜んでくれて、「有地さんのバンドにはまた出演してほしい」と言われてうれしかった。
控室で帰る準備をしていると、1階の部長さんがお土産をかかえて持ってきてくれて、1階の部長さんが仕事に戻ると今度は8階の部長さんが、抱えきれないほどのお土産を持ってきてくれていなくなると、また1階の部長さんが現れて「それどうしたの?」「8階の部長さんにいただきました」と返すとまたどこからかお土産をいっぱい抱えて…という事が繰り返されて、我々はお土産だるまになってしまった。中にはペコちゃんのペロペロキャンディ大ボトル入りみたいに、三越では絶対売っていないと思われるものまでいただいた。
プロダクションの社長さんもニコニコしていたが「いいですか有地さん、レコード出すときは必ずうちを通してくださいね」と言って帰って行った。
以上がベーゼンドルファーに纏わる思い出ですが、当時35歳で若手といえる時代の最終ページだったような気がします。この翌年にはつくば市への単身赴任が決まっていて、それまでの週1練習、月1ライブみたいな活動はできなくなり、メンバーもそれぞれ別のバンドがメインになり、自分のトリオは活動休止状態に入っていきます。
4回にわたり読んでいただいてありがとうございます。自分でも書いていてあのベーゼンドルファーがとても懐かしくなり、今度東京に行ったら光が丘美術館を訪ねてみようと思っています。
それと日本橋三越にも、お店の前はよく通るんですがあれ以来店内に入った記憶がないので今度寄ってみようと思います。
P.S.
・写真がボケていてよくわかりませんが、インタビューしてくれてるプロダクション所属のMCさんはと~ってもきれいな方で、みんな彼女の方を向くときだけ目がハートになっていました。
・貼ってある写真ですが、当時はまだ公衆電話とポケベルの時代で「写ルンです」(当時どこでも売っていたインスタントカメラ)で撮ってもらった写真です。四半世紀前ですもんねえ。
・ワンコインコンサートのお申込みありがとうございます。頑張りますので温かく見守ってください。CDも好評発売中なのでよろしくお願い致します。
訂正:三越の8階は誤りで7階でした。それと演奏したのは土日ではなく物産展の最終の2日間(土曜日から始まって最終日が金曜日)だったようです。訂正させていただきます。
赤提灯探検隊
「歓楽街から外れたところにひっそりと佇む赤提灯をしらみつぶしに調査しましょうよ」というメールを某大学教授からもらったのは、単身赴任を終えて戻って来た頃だった。もちろん直ぐにOKと返信した。どこから始めようかという話になって、「…自分が子供のころからあって今もやっている焼鳥屋がJAの裏にあってとても気になっていた…」という話をすると、じゃあそこからということになって二人で出かけた。
当時40歳ちょい前の自分が5~6歳頃には既にやっていた店なので、相当のおじいさんかおばあさんがやっているだろうと思い「のんき」の暖簾をくぐった。豈図らんや店主は自分よりだいぶ若い生きの良い青年だった。カウンターだけで10人も入ればいっぱいの店で、その時も客が混んでいてなんとか座れた。
酒の好きな方はご存じと思うが、鶴岡の焼鳥屋はブタのホルモンを焼いて出す店が多い、というか主流だ。土地によっては「焼きトン」というのが鶴岡では焼鳥、もちろん鳥を焼いて出す店もあるので少しややこしい。
シオで注文したレバー・タン・ハツ・シロ…ガスで焼いているのだが、いいモノを使っていて焼き具合が絶妙で、柔らかくてとても美味い。熱燗を頼むと「ちろり」から注いでくれた。ちろりの燗は早いし触りが優しくて好きだ。いつだったか新宿西口の「思い出横丁」で熱燗を頼んだら、ストーブにかかってグラグラ煮立っているヤカンから注がれたことがあって、なんぼ呑んでも酔わなかった。熱燗はちろりに限る。
教授に「こんなに美味いんだからオレここに通いますよ。調査これで終了にしましょうよ。」と言って探検隊は一晩で解散したのだった。
今では考えられないが、当時の人々は夜遅くまで働いた。ノー残業デーはサービス残業デーと揶揄され、テレビでは「~24時間働けますか~」と唄っていた。年齢的にスタッフを預からせてもらった頃でもあって、厄介な外回りが夜9時頃に終わると「9時半のんき集合!」とみんなで行って、「マスター焼鳥メニューの端から全部焼いてくれ!」と言ってはつかの間のリフレッシュを楽しんだものだった。
などと書いていたら焼鳥食べたくなってしまった。明日寄ってみっかな。
作曲のやり方
ジャズはコード進行やメロディーに合わせて即興で演奏する音楽なので、言ってみれば演奏ごとに作曲しているようなものだ。だからこれまで作曲しようと思うことはあまりなく、40年以上バンドをやっていてオリジナル曲は2~3曲と少なかった。ところが一昨年あたりからメロディーが降りて来るようになって、ここ2年で20曲を超えて作曲してしまった。この「メロディーが降りて来る」という感覚だが、同様に言う作曲者は結構いるらしいのだが、先日某ライブでご一緒した作曲家でもあるエレベ氏は何度も「信じられない」を繰り返していらしたので、自分なりに少し掘り下げてみようと思う。
この「メロディーが降りて来る」を別の言葉で言い表すとしたら「湧いてくる」だろうか。ふとした瞬間にアタマの中にメロディーが現れるのである。在宅中ならすぐにパソコンで譜面にするのだが、外出中は困ったことになる。筆記用具を持っていれば手帳に5線を引いてメモることもあるのだが、何も持たないときはどうすることもできず消えてしまう。
できた曲には想い入れがない。自分が作った曲ではない感覚なのでほぼ無関心で、ただバンドで使えるかどうかだけが気になる。自分では、神様が雲の上から譜面を撒いていて、自分がたまたまキャッチしたイメージなのである。
また、降りて来るメロディーには特徴があって、それは「カドがない」のだ。ごく自然なメロディーで無理した痕がない。だから他人の曲でも「これは降りてきた曲だな」ってわかることがある。例えば荒井由実さんの初期の曲には多いなあと感じる。(違っていたらごめんなさい)
メロディーは降りて来るからいいのだが作詞はつらい。譜面にしたメロディーを前に、これでどういう情景や物語を創ったらいいのかじっと考える。
「家を出てどこかに出かける。しばらく歩くと川があって橋がかかっている。そうだ、この橋を渡ると幸せが待っている…そんな物語を歌詞にしよう…」という風に妄想して歌詞を創っている。自分の場合、歌詞は情景の描写までにして止め、聴いてくださる方がメロディーと歌詞から自由な発想が得られるように心がけていて、これは自分の曲の特徴だと思っている。
本日開店
20年前のこと。盛岡での仕事が終わり、所属の異なるスタッフ4人で打ち上げようと駅前の盛り場をうろついていた。誰も盛岡には詳しくなくて安くてうまい店がわからない。するとハッピを着たお姉さんが「居酒屋本日開店!本日開店!」と叫びながらクーポンを配っている。「安いの?」と尋ねると「安くて美味しいのが自慢です。7時まで生ビール半額ですよ!」というのでそこで打ち上げることにして暖簾をくぐった。驚いたことに店の名前が「居酒屋本日開店」だった。
本当に安くてうまかったから騙されたわけではないけれど、毎日「居酒屋本日開店!」って客寄せができるんだなあ、どことなく毎日1つ売れる現品限りと似ている感じがした。
打ち上げは「今までどんな失敗をやらかしたか自慢し会って、一番すごい失敗の経験者にみんなで奢る」というゲームで盛り上げることにした。ジャンケンで順番を決め、とあるメーカーの営業のKさんがトップバッターになった。彼は「自分の失敗をしゃべったら誰もしゃべれなくなりますよ。いいですか?」と前置きして話し出した。「自分は今の会社に入る前、住宅メーカーで営業をしていたんですが、他人の土地に顧客の家を建ててしまったことがあります…」
あの頃も忙しかったけどずいぶん飲んだなあと思い出します。10年くらい経ってから盛岡に行ったときに「居酒屋本日開店」はあって、懐かしくてそこで飲んだけど今もあるかな?
現品限り
実は「現品限り」に弱い。自分だけでなく家内も弱い。
「もうじきカネが入るから、ちょっと見るだけ行ってみようか?」と言って家具屋さんなどに出かける。するとかなり高い確率で、安そうで見栄えの良い「現品限り」に出会ってしまう。運んできた運送屋さん曰く。「この商品は毎日1つ出るんですよ」。この時から「安物買いの銭失い」を座右の銘にしようと決めた。
先日、某ジャーナルが企画したWEB配信の鼎談に出させてもらった時に、司会役の先生から座右の銘をと言われて困った。「安物買いの銭失い」と言って笑ってもらえそうな雰囲気ではないし。幸い先行した方の発言が長引き、私は答えなくてよくなって助かったのだが、その話が面白かった。
その方の座右の銘「漂えど沈まず」。(「たゆたえど沈まず」ともいうらしい)
なんと良い響きの言葉だろう。聞いただけで哲学だと思ってしまう。自分だってそうだった。右往左往したり、沈没しそうになったり、でもなんとか沈まずに今がある…。フランスの格言とかパリの標語とか後から教えていただいたが、良い話が聞けて良かった。
そして今、クラゲの唄を作っていて、この「漂えど沈まず」を歌詞に織り込もうとしている。だってピッタリでしょクラゲに。